見返りに、愛情を期待してはいけない
学生時代、ある教師からこんなことをいわれたことがありました。
「学力をつけたいなら、先生を好きになれ」と。そのとき、私は変なことをいうな…と思ったのです。

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当時、私は中学生でしたが、さすがにこんな子どもだましのような言葉に納得はしませんでした。もちろん、先生が好きなら勉強に身が入ることもあるでしょう。
嫌いな先生に教えられるよりは、好きな先生に教えられる方がやる気も出る。でも、先ほど教師がいった理屈には無理があります。
どこが無理なのか…一緒に考えてみてください。
「勉強ができるようになりたいなら先生を好きになれ」というのは、「お金をあげるからオレと付き合え」といっているようなもの。
つまり、何かの見返りに、愛情を要求しているわけです。「勉強自体を好きになれ」というのならいいでしょう。
しかしこの場合は、”私のことを好きになれ”といっている。人の「好き」は強制できるものではないため、無理があるのです。
先ほどの先生の言葉の裏には、自分の指導に従わせたいという思いがあったに違いありません。
教師という立場上、そういう思いになることもあると思います。しかし、忠誠を求めるようなやり方が上手くいくはずはないですよね。
これは学校だけではなく、一般社会でもいえること。他人に忠誠を誓わせるような方法で、人をまとめようとしても、決してうまくはいかないのです。
愛情は束縛ではなく、自由
かつて、私の先輩にも「後輩は先輩を尊敬しなければいけない」を持論にしている人がいました。本気でそう思っているのなら、本人の考え方ですから仕方がありません。
しかしこの人の気持ちの裏には、「相手にいうことを聞かせたい」という思いが強くあったのです。
というのも、この人は先輩の悪口をよく言っていました。言行不一致だったわけです。
個人の恋愛にもあります。
「あなたのことが好きだ」といいながら、やたらに相手に対して注文をしていませんか?
「常に私のことだけを見てほしい」と心のなかで要求していませんか?そして、それを口に出すことをためらっていないでしょうか。
要求が多いのは、叶わないことが多いということ。結局、相手に対する不満の虜になってしまうのです。
「愛の虜」と「疑惑の虜」は、表裏一体。愛のままでいればいいのに、なぜかそれを疑惑に変えてしまう。
結局それは態度になって現れるので、相手にとっても付き合いにくい人になります。
愛と束縛を混ぜていると、こんな勘違いをしてしまう。愛情は、束縛ではなく「自由」です。
お互いその自由を尊重し合うことが、愛情の証。恋愛も人間関係もそうですが、ややこしい状況になると難しく考えがち。
そのときに必要なのは、複雑な考え方ではなく、シンプルな考え方です。