自由意思と貞操義務のグレーゾーン
戦後にこの罪が廃止されたのは、妻側の行為だけが罰せられるのは「男女不平等」だという理由から。そこで「妻がしても、夫がしても罰する」という方向には進まずに、婚外でカンケイを持つか持たないかは、男女とも本人の自由意思に任されるような形になった。
そんなわけだから、昭和のころには自分の連れ合いに対して、「長い結婚生活のうちには、夫が(あるいは妻が)1回ぐらい浮気することもあるかもしれないけれど、バレないようにやってくれるなら構わない」という寛大な考え方をする人も少なくなかった。
ただし、法律上の罪ではなくなったとはいえ、結婚した者同士には「貞操義務」、つまり連れ合い以外の人とはカンケイを持たないものという、法律でハッキリそうと決められてはいないけれど、暗黙の“お約束”があるとも見なされている。
そのため、不貞を働いた連れ合いを家庭裁判所に訴えれば、慰謝料をもらって離婚することができたりする。逆に、連れ合いの不貞を知った上で、大目に見て結婚生活を続けるのも、本人の自由なのだ。
つまり、その行為の良し悪しを、当事者以外の人たちが決めることは、本当はできない。
ところが最近の「不倫バッシング」は、法律上の罪ではなくなった婚外の情事を、みんなで責め立てる「社会的制裁」という形で罰しているかのように見える。
しかも封建時代と違うのは、妻と夫のどちら側がやった場合も同じように責められるという点。男女両方が痛みを引き受けるという意味では、戦前より公平になったとはいえる。
ただ、私がこの「不倫=悪」という条件反射的なバッシング現象を不自然だと感じるのは、結婚している方を無条件に「正しい側」とする扱い方がパターン化していることなのだ。
その結婚は、もはや「正しいこと」ではないかもしれないというのに。