「婚外=悪」「結婚=正」とは限らない
例えば、夫のDVに苦しみながら、世間体や金銭的な理由で離婚を認めてもらえない女性が、より自分にふさわしい相手と出会って、愛を育むことを決めたなら、その関係をも「不倫」と呼ぶべきなのだろうか。
確かに法律は守るべきものではあるけれど、もし法律上の夫婦であることをタテにして、相手のより良き人生選択をする自由を奪おうとするなら、それこそ法律ではなく「倫理上の罪」ではないだろうか?
そもそもすべての結婚が、愛情や信頼関係のもとに成り立っているわけではない。
自分の家庭のことを「生き地獄だ」「気が休まらない」などと毒づきながら、世間体や何らかの利害関係のために簡単に離婚できずにいる人たちの話を聞いていて感じるのは、むしろ《偽りの結婚こそが不倫なこと》ではないかということ。
それは、限られた人生の時間を無駄にすることでもある──自分のも、相手のも同じように。
また、連れ合いのことをそこまで嫌ってはいない人でも、もし無条件に惹かれ合い、純粋な心で「もうこの人なしの人生は考えられない」といえる相手と出会ってしまったら、これまでの結婚生活を続けるのは苦痛や違和感が伴うことになるだろう。
普段は忘れられがちだけれど、夫婦の関係というものは、生涯不変のものとは決まっていない。男女どちらからでも離婚を願い出る権利は、何も現代の法律だけでなく、実は封建時代のころからも保障されていた。
私たちには、限られた人生の時間をよりよく生きるために、より自分にふさわしい人生の相方を選ぶ権利があるのだ。
実際、20世紀から2000年代にかけて、大物有名人の不倫が報じられたときには、そこへ前パートナーとの離婚と、新しいパートナーとの再出発がついて来ることが多かった。そこにはむしろ「2股にケジメをつける」というような潔さも伴っていた。
ザッと1960年代生まれの私の記憶に残っているだけでも、プロ野球監督、人気司会者、売れっ子作家、ミュージシャン、女優、お笑い芸人、国会議員などなど、実にさまざまな分野の顔ぶれが思い浮かぶ。
彼らは一時期の逆風と痛みを伴いながらの「パートナーチェンジ」を果たしたあとに、やがては周囲からも祝福されるような幸福そうな夫婦生活を手に入れていた。かの世界を変えたポップス界のカリスマ、ジョン・レノンとオノ・ヨーコの伝説的カップルだって、その出発点は婚外恋愛だったのだ。
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