近づく女
「りかのおばさんにお願いしたいことがあって」
「え、お母さんに?いいけどどうかしたの?」
「んーナイショ」
そういうとあきこは一人リビングに入り、私の母と話し始める。しばらくすると楽しそうな笑い声が聞こえてきて、あきこがリビングを出る音がした。私は自分の部屋で、特に何の違和感も抱かずに自室のドアが開くのを待っていた。
「何の話してたの…あきこ?」
ドアが開いたと思って声をかけたが、ドアは閉まったままだった。代わりに聞こえてきたのは、隣の部屋で話す兄とあきこの声だった。
「すみません!本当、どうやってお詫びをすればいいか…」
すぐに兄の「大丈夫だから、気にしないで」という声が聞こえてきた。話の流れ的に、車のシートについた血の汚れのことだろう。
そのあと戻ってきたあきこは、泣きはらした目でしばらくぐずぐずとしていた。あきこの長い髪がはらりと揺れて、白い肌にポロポロと涙が落ちる。なんだかその光景がわざとらしくて、同時に不気味だった。
「お兄さんに悪いことしちゃった…」と落ち込むあきこに、母と何を話していたのか、シートの血のことをどこで知ったのか、私は聞けなかった。
次の週、私がバイトから帰ると玄関にあきこの靴があった。
リビングに入ると、そこにはキッチンに立つあきこと母親。楽しそうにお皿を洗っていた。もう夕食を食べ終わった後のようだ。
「約束してたっけ?」
「おばさんと約束してたの。お料理教えてもらってたんだ」
「えっと、なんで?」
「おばさんの料理美味しいから、ずっと習いたいなと思ってて」
「私何も聞いてないんだけど」
「ごめんなさい…っ」
わっ、と突然あきこがその場にしゃがみこんだ。
「りかの気持ち、何も考えてなくてごめんなさい!許して…っ」
わあわあと泣き喚くあきこを、母親が慰める。
「りか、あきこちゃんに謝って」
「謝るって、何を?私何かした?」
「言い方がきついのよ、なんで?とか何も聞いてないんだけど?とか、もっと優しい言い方できないの?」
「そんな…」
あきこの行動に違和感を覚えながらも、私は無理やり自分を納得させて、ごめんと口にした。
次の日も、次の日も、そのまた次の日もあきこは私の家に来て、母親と料理をしていた。
そのうち父親とも話をするようになって、気づいたら泊まっているなんてことも多かった。そして兄に対しても、あきこは急に距離を縮めるような行動をし始めた。
「これ、車を汚しちゃったお詫びです」
あきこが兄に差し出したのはマフラーだった。手編みの。
「あきこちゃんが編んだの?」
「はい…迷惑でしたか?」
「いや、うれしいよ。ありがとう」
兄は明らかに顔が引きつっていた。あきこが帰ってから兄がテーブルの上に置いたままのマフラーを見ると、ところどころ違和感のある糸が混ざっている。それは、あきこの真っ黒な、長い髪の毛のようだった。
そのあともあきこは私の家に頻繁に足を運んだ。気づけば母は家であきこの話ばかりするようになった。
「あきこちゃんって料理上手なのよ」
「お兄ちゃんはあきこちゃんみたいな子と結婚したらいいわよ」
「うちの子になってほしいくらい」
最初は「そっかぁ」と笑っていた私も、あきこがあまりにも家に来すぎることにだんだんイライラしていた。
一度あきこに対して「ちょっと来すぎじゃない?」と怒った。するとあきこはまた大泣きして、自分の髪の毛をブチブチとむしりだした。それ以来、何も言えない。
兄に対しても、あきこはどんどん距離を詰めていく。大学にもっていくお弁当を作ったこともあったし、兄の服を全部アイロンがけしていたこともあった。
リビングに下りればあきこが私の家族と笑っている。私が入る隙間がない。私は一人、部屋のベッドの上でスマホを見つめることしかできなかった。