家に帰ると妻がいなかった。3歳になったばかりの娘もいなかった。
いつかこうなる日が来ると、どこかうっすら気づいていたのかもしれない。だけど、それがあまりにも唐突すぎて心の準備ができていなかった。
きのうまで幸せな空間だと思っていた我が家は、一瞬で崩れていってしまった。
- 登場人物
- 俺:この物語の主人公
- 妻:専業主婦
- 娘:みさき、みっちゃん。幼稚園生
「幸せそうで羨ましい」喜ぶ俺と対照的な妻

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土曜日、俺は妻と娘と共に近所の公園へ来ていた。
「こんにちはー、奇遇ですね」
話しかけてきたのは、近所に住む職場の部下、菊池だった。若い奥さんと2歳になったばかりの息子を連れている。
「うちのカミさんと、息子のこうきです」
菊池の奥さんは一瞬笑って頭を下げると、その場からすぐ走っていなくなった。どうやら子どもを追いかけに行ったらしい。
「うちの妻と娘のみさき」
仕方なく菊池だけに妻を紹介する。妻は菊池に丁寧にお辞儀をして、みさきも真似をして頭を下げた。
「噂には聞いてたけど、めっちゃキレイっすね、奥さん。幸せそうで羨ましいっす!」
だろ?と菊池に言う。妻と知り合ったのは大学生のとき。ミスコンで優勝した妻に一目惚れし、猛アタックして付き合った。
道ゆく男性がみんな振り返るような美女。俺は捨てられてしまわないようにと、がむしゃらに仕事をした。せめて経済力があれば、妻が離れていくことはないと思ったのだ。
実際に妻はいまも俺を愛してくれているし、愛しい娘もいる。そろそろ二人目がほしいなと考えているとこだ。できれば子どもは三人ほしい。
「あなた、私みっちゃんとブランコに行ってくるわね」
「まあ待てよ。菊池と会うの初めてだろ?」
菊池には妻の魅力をわかってほしかった。そして、俺の幸せをわかってほしかった。
「あー大丈夫っすよ!ブランコ行ってきてください!」
ニコニコ笑う菊池に苛立つ。俺の美しい妻を紹介される時間は、どうだっていいと言うのか。
「パパー!」
一瞬のぎこちない間を埋めるように、菊池の息子が勢いよく走ってきた。
「あ、すんません!俺、遊んできます!」
引き止めるのも届かず、菊池はさっさと砂場の方へ走って行ってしまった。手を砂だらけにして遊ぶ菊池の妻を見て、かわいそうだなと思った。
横で妻が「幸せそう」と呟いたのを、俺はわざと無視した。
何もしない妻、それを許す俺

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ある日、家に帰るとひどい光景が広がっていた。ソファーの上に散らばる洗濯物、朝からそのままの洗い物。夜ご飯にはレトルトカレー。
「どうしたの」
寝室ですやすや眠る娘のそばで、妻はがっくりとうなだれていた。
「あ、おかえりなさい。ごめんね、みっちゃんが胃腸炎になっちゃって…きょう一日病院で点滴して、帰ってきてからも吐いて吐いて…。熱も高くて、いまようやく寝たところなの」
「そうなんだ」
「薬はもらって、とりあえず明日また病院。それで、さっきから実は私も…」
「はあ、もういいよ」
「…え?」
妻は自分のしたことをわかっていないようだ。俺はがっくり肩を落とし、それでも妻を愛しているから、優しく説明してやった。
「夜ご飯を作る暇も掃除する暇もないの?もしかして全部みっちゃんのせいにするつもり?」
「…それ本気で言ってるの?」
「みっちゃんが具合悪いのは仕方ないし、看病してくれた君にも感謝してるよ。でもさ、専業主婦なんだから時間くらいあるよね」
「きょうは無理よ!みっちゃんがどれだけツラそうにしていたかしらないでしょう?」
「でもずっと吐いてたわけじゃないだろ?その合間にできることってあったんじゃないの」
妻は口を閉ざしてじっとこちらを見ていた。そのうち目からぽろぽろと涙がこぼれてきて、俺は内心「めんどくさいな」と思ってしまった。
「泣けば済むと思ってるの?まぁいいや、今度はこんなことないように気をつけてね。俺、毎日働いてめっちゃ疲れてるんだよ。家族のためにこんなに長く働いてるんだからさぁ…きょうは外で食べてくるわ」
寝室を出て一度ため息をつく。それでも、何もしない妻を許してあげるんだから俺って優しいよなと自己評価する。それなのに妻の泣く姿が頭から離れなくて、なんだか無性に苛立ってしまった。