それは私が、前に進むために必要なお金
「慰謝料を、請求できるんですか」
「ええ、それは婚約破棄の正当な理由とは認められません。そうですね…150万円ほどでしょうか」
祐樹に婚約破棄を言い渡されたあと、すぐに祐樹との同棲も解消された。もともと祐樹が一人暮らししていた家だったから、結果的に私が出ていく形になった。
目を真っ赤にはらして帰ってきた娘を見て、あの日両親は何を思っただろうか。自棄になった私は職場にも行けなくなり、仕事もしばらく休職することになった。
上司の、なんて声をかければいいのかわからないと言わんばかりな戸惑いが、ひしひしと心に突き刺さってきた。
そして私が実家にしばらく帰ると話したら、上司は「婚約破棄は慰謝料が取れるから、弁護士に相談してみたらどうかな」と言ってきた。
そのときは「お金で解決する話じゃないし」と思っていたのだが、両親に話しているうちにだんだん怒りが沸き上がってきた。
そして父親の「黙っているだけじゃ気が済まない、訴えてやる」という言葉がきっかけで、私は弁護士に相談することになった。
「150万円…」
金額を聞いてもあまりスッキリはしなかった。私たちが過ごしてきた3年間、結婚を楽しみしていたあの気持ち、両親の想い。そのすべての終わりが、たったの150万円だなんて。
きっと300万円になっても、1千万円になっても、いくら札束を重ねたところでなっとくなんてできやしない。
これだけ悲しい気持ちになってもなお、私は彼への想いを捨てられずにいたからだ。本当は全て夢なんじゃないか、長い悪夢を見せられているんじゃないかとさえ思っていた。
「もう少し、考えてもいいですか」
「ええ、もちろん。ただ早めのほうがいいですから」
「わかりました」
弁護士事務所を出て、ひと息つこうと公園のベンチに腰掛けた。顔を上げると、見渡す限りの青空が私を見下ろしている。
「こんなに天気はいいのに、私の心は土砂降りだよ」と思ったところで、カメラを空にかざしてみた。あまりにもきれいな空。なんだか心に響いてきて、写真に残そうと思ったのだ。
「よくとれたかな…」
データフォルダを開いて、指が止まる。そこにはドレスを試着して、嬉しそうに笑う私の写真が何枚も並んでいた。
「加奈ならなんでも似合うよ」
「こっちのデザインもかわいいね」
「俺、カラードレスなら黄色が似合うと思うんだ」
「やっぱり青も着てみてよ、絶対に合うって!」
まだ記憶に新しい、彼の言葉が頭に浮かぶ。だけど…。
「バカだなぁ。このあと婚約破棄されるって知らないで、私、こんなに笑っちゃってさ」
スマホ画面をじっと見つめて、思わず苦笑いしてしまう。
思い出はお金に変えられないし、慰謝料をもらったところで傷が癒えるわけもない。でもこの時の自分のために、もう一度笑って前に歩き出すために、ひとつの節目として決断するのもいいだろうと思った。
「もしもし、先ほどお話しした山口です。あの、婚約破棄の件なんですが、やっぱり慰謝料を請求しようと思います」
それから話はスムーズに進んでいった。彼は驚いていたけれど、納得して150万円を払ってくれた。
いまでも傷は癒えない。150万円なんかでスッキリするほど、軽い恋なんてしていない。まぎれもなく私にとって、人生で一番幸せな時間のはずだった。
「パーッと、旅行でもしようよ」
通帳を見る私に、両親は優しく微笑んでくれた。
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- ※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。