油断と現実、子どもたちの顔
その日終電でなんとか家に帰った私たちは、それからも偶然を装って会うことが増えた。連絡はとらない。ただ最後に別れるときに「偶数週の金曜日、18時にここで」と約束するだけ。
いけないことをしている自覚は互いにあった。バレたら終わり、そんな秘密の関係であると自覚していた。
よりによってダブル不倫。妊娠中の妻、2人の子ども、優しい夫。不倫したくなる理由なんてどこにもない。ただ、懐かしかっただけ。
松浦くんは会うたびに、よく私の髪を撫でた。
「吉永って、昔っから思ってたけど髪の毛サラサラだよな」
「そう?」
「いいなぁ、俺髪の毛サラサラの女の人好きなんだよね」
彼が好きと言ってくれた髪の毛をどうにかキープしたくて、私は前よりも美容室に通う頻度を増やした。いいシャンプーに買い替えて、ヘアケアにこだわるようになった。
「ママ、最近髪の毛サラサラだね」
心が安定しなくなったのは、このころからだった。
「いいなぁ、まゆもサラサラになりたいな」
「まゆはもう十分サラサラだよ、お姫様みたい」
夫がカレーライスを食べながら、娘の顔を見てニッコリ笑う。
「でも最近、本当ますますきれいになったよね。何かあった?」
「ううん、特に何も…。季節の変わり目だから気をつけようと思って」
季節は秋になろうとしていた。もう少しで松浦くんの家庭に家族がもう一人増える。捨てられないように頑張らなくちゃ。そんな気持ちで、私は美しくい続けることに気を配った。
「そっか」
何も知らないであろう夫が優しく笑う。この人はいつも、本当によく笑う。
だから一瞬真顔になったとき、私のほてった頭がスッと冷めていくのを感じた。
「ほどほどにね」
何が、ほどほどになんだろう。
勘違いだったのかもしれない。いまとなってはもうわからない。でも、それは「美容に気を配るのもほどほどにね」というニュアンスではないのはたしかだった。
「大人だから」ってなんだろう、私たちの決断は
誰かをだまし続けているこの関係に、いずれ終わりが来るのはわかっていた。口約束だけの不安定な予定。突然会えなくなるかもしれないあいまいな状態。
もしもバレたらどうなる?そんな現実から目を背けていたのは、いつまでも生ぬるい恋に浸っていたかったから。
だから、まさかこんなところでバレるなんて。
「吉永さん、先週の金曜日、旦那さんとホテル行ったの?」
「え?」
トイレで手を洗っていると、突然上司に声をかけられる。同じ子育て中の主婦として、よく話を聞いてくれる頼れる先輩だった。
「えっと、いえ」
「そっか。じゃあ勘違いかな。うちの部署の若い子たちが先週飲み会の帰りに寝、吉永さんと男の人がホテルに行くのを見たっていうから」
「それは…」
人違いじゃないですか、その一言が出てこない。
「ごめんね、変なこと聞いて。もしかしてだけど…不倫とかしてたらどうしようかなって思ってさ」
ははは、と笑う先輩を前に、私は何も言えず、ただ濡れた手をハンカチで拭くだけ。
「もし図星だったとしてもさ、ほら…もう大人だから。どんな恋しようが勝手だと思うけど。娘ちゃんと息子くんは、元気かなって思ったの」
そう言い残してトイレを後にする先輩の背中を、私は黙って見つめていた。
大人だから、どんな恋をしようが勝手。不倫だろうが、なんだろうが、自己責任。だけど大人なんだから、大事にしなきゃいけないものもわかるでしょ?
上司の言葉の裏にそんな本音を感じながら、私は見てみぬふりをしていた真実に少しずつ目を向ける。私は、ひどいことをしている。
その週の金曜日、初めてスマホに松浦くんからメッセージが届いた。
「赤ちゃん、生まれた!」
見ると生まれたてのふにゃふにゃな新生児が、白いおくるみにつつまれすやすやと眠っている。その手はしっかり松浦くんの指を握っていて、顔が見えなくても幸せそうな表情が想像できた。
大人だから、どんな恋をしようが勝手だと思うけど。
先輩の言葉が頭に浮かぶ。勝手な恋を終わらせるのも、大人だからできるよね。
「おめでとう!」
ただ一言メッセージを送って、私はそっと連絡先を削除した。
その週の金曜日、私は待ち合わせ場所に行かなかった。
「きょうは飲みに行かないの?」
「うん、もういいの」
「リフレッシュ、してきていいのに」
「ううん。大丈夫。お酒はもういいかなって」
金曜日の夜、キッチンに立つ私を見て夫が呟いた。
「よかった。大人だもんね」
その言葉に、この人はすべて知っていたのかもしれないと感じた。大切な人を、失ってしまうところだったのかもしれないと。
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- ※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。