順調な日々と理想の未来
「美波ちゃん、この間のプロジェクトの話なんだけどさぁ…」
キーボードを打つ手が止まる。背後から聞こえた上司の声に、びくりと肩が震えた。また何かやらかしてしまったのだろうか。
先月海斗の本命彼女に昇格してからというもの、気持ちが浮かれっぱなしでずっとフワフワしていた。こんな浮かれたままじゃまた仕事で失敗するんじゃないかと不安でスイッチを切り替えようとしたが、どうにもうまくいかない。
恋がうまくいっていると、ほかのことも全て順調に思えてくるものだ。「ま、失敗しても私には素敵な彼氏がいるし!」という謎のモチベーションが私のやる気につながっていた。だからこそ、調子に乗った天罰が下ったと思ったのだ。
「聞いてる?」
「は、はい!すみません、集中してました」
「ははは、ごめんね急に。この資料めっちゃいいじゃん。みんなにわかりやすいって評判だよ。クライアントからもいまのところ反応がいいし。スケジュールは順調?」
「はい、みんな頑張ってくれているので納期よりも早めに納品できそうです」
「さすが。美波ちゃんに任せて正解だったわ。この調子で頼んだよ」
「はい!」
ぽん、と肩に手を載せられ、思わず声が飛び上がった。褒められるとは思っていなかったからだ。
スラリと背が高く、デキる女として社内でも一目置かれている自分の上司。憧れの女性。そんな彼女の褒め言葉は心に深く深く刻まれた。
「やった…」
デスクの下で小さくガッツポーズをする。やっぱり恋の力は偉大だ。浮かれていると言われてもいい、バカにされてもいい、幸せだとすべてがうまくいく。だったら何を言われたって怖くない。
鼻歌を歌いだしたくなる気持ちをグッと抑え、デスクの上のカレンダーに目をやった。きょうは18:30から海斗とデート。華金の夜、私たちはお泊まりデートをすると決めているのだ。
「美波さん、なんかきょうテンション高いですね」
隣のデスクの子に言われて思わず口元がにやける。
「バレた?デートなんだぁ」
「えっ、彼氏できたんですか?」
「そうなの!見る?」
コソコソとスマホの待ち受けを見せて、一緒に盛り上がるこの時間が幸せだった。青春してるみたいだった。
「で、俺がイケメンだって?」
そんな話を海斗にすると、少し呆れながら笑ってくれた。私の作った手料理をおいしそうに頬張りながら、今週の出来事を笑って聞いてくれる海斗がとても好きだ。カラダだけの関係のころよりも、ずっとずっと。
「もう、そんな話してないって」
「え~でもさ、よかったじゃん。仕事うまくいってるみたいで」
「うん。海斗のおかげ」
「なんで俺?」
「ふふ、なんでもなぁい」
あなたと付き合えたからだよ、そう言いかけて言葉を飲み込む。照れくさくって言えやしない。これは将来、プロポーズしてくれたときにでもとっておこう。あなたのおかげでここまで頑張ってこれましたって。
期間限定の幸せ
「ところでさ、最近私たち、してないよね」
「してないって…何が?」
私がいつも寝ている、少し広めのセミダブルベッド。2人で寝ると少し狭いが、この密着感がいまは心地いい。
パジャマに着替えて一緒にベッドに潜り込み、私は海斗の腕のなかにすっぽりおさまった。
「前はそういうことしかしてなかったから、一緒のベッドで寝てるのに裸にならないのが不思議っていうか…」
「俺、美波とヤリたくて付き合ったわけじゃないよ?」
「知ってるよ!前は都合のいいときに会ってホテルに行って寝るだけの関係だったから、そういう目的じゃなく海斗と会っている状況に慣れなくて…」
「俺、彼女のことは大事にしたいタイプだから」
「なにそれ」
少し笑ってみて、すぐに喜びが心を覆いつくす。本命彼女にしか味わえない幸福感に、顔がにやけていく。大切にされているという現実が嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。身体の関係だけじゃない。海斗は私自身を愛してくれているんだ。
しかし、それから数カ月が経つと状況は徐々に変わってきた。
「申し訳ございませんでした…!」
深々と頭を下げる。床を見つめる瞳がにじむ。
仕事が順調に進んでいたのは最初だけだった。恋も同じ。始まりは順調で、時間が経つと徐々にうろこが剥がれていく。ポロポロ剥がれた後に残るのは、事実。私の未熟さと、やっつけ仕事のしわ寄せ。
「私が気づいたからよかったけれど…危うくもっと大きなセキュリティインシデントが発生するところだったんだよ。情報管理には十分気をつけてって…何度も話してきたでしょう」
「はい、おっしゃる通りです」
「クライアントさんからの信用を取り戻すには時間がかかるよ」
「はい…」
泣いていられない、挽回するためにはとにかく動かなくちゃいけない。自分のしでかした大きな失敗が頭にぐるぐる回るなか、私は頑張って頭を切り替える。涙のにじんだメイクを直そうと、お手洗いに立った。
「海斗に話聞いてもらお…」
そのとき送った私の愚痴メールは、一晩経っても既読がつくことがなかった。
「最近連絡遅いな…」
反応のないトーク画面を見つめて、少し不安になる。前のデートは3週間前。週に一度泊まりに来ていた海斗は、最近「忙しいから」とお泊まりデートを避けるようになった。
さらに前日のドタキャンも続き、しばらくデートができていない。電話をしてもそっけない態度で、これが倦怠期かと少ししょんぼりしていた。
でももしかしたら、これは倦怠期じゃなくて…
「まさか浮気されてないよね?」