最後にただ、話したいだけだった

写真はイメージです。image by:Shutterstock
もとはと言えば、毎日文句ばかりを言ってくる夫のせいだ。夫がゆかりにデリカシーのないことばかり言うから、ほかの男性に目がくらんでしまったのだ。
ゆかりは不倫をどうにか正当化しようと、あらゆる言い訳を考えた。仕方ない、起こるべくして起きたのだ。
「先生は、私を救ってくれた恩人。私たちは愛し合っていた。夫がくれなかった愛を、佐々岡先生は私に注いでくれた…それの何がいけないの?好きになった相手がたまたま担任で、私がたまたま既婚者で…たったそれだけじゃない。悪いのは、こんなきっかけを作った夫よ」
ゆかりはもう、自分の不倫が罪だと思うことができなくなっていた。正しいのは自分だと何度も言い聞かせる。
気づけば足は、佐々岡の家に向かっていた。
世間は2人が結ばれるのを決して許してはくれないだろう。まるでロミオとジュリエットのように、激しく美しい愛で結ばれた2人なのに、幸せな未来は訪れない。だったらせめて、こんな終わり方は嫌だ。
「先生、私です、小泉です!最後に話をさせてください!」
インターホンをいくら押しても、佐々岡は出てこなかった。しかし、家にいるのはなんとなくわかっていた。ゆかりはドアを何度もノックし、声を張り上げる。
マンションの別の部屋の住人がうとましそうにゆかりを見たが、そんなの気にならなかった。
そして、ようやくそのドアが開いた。
「先生、会いたかった…!」
開いたドアの隙間に手を入れ佐々岡に抱き着こうとしたとき、金属音がガチャリと響いた。ゆかりがこれ以上部屋に入れないようにと、玄関のチェーンが行く手を阻む。
「先生…?」
「僕はもうあなたに会わないと決めたんです」
「私たち、愛し合っていたじゃないですか!こんな終わり方は嫌です。せめて話をさせてください」
佐々岡は、首をゆっくり横に振る。
「僕は子どもの心を壊すために教師を目指したわけじゃない。大事なことを忘れていた。もうあなたとは連絡を取れない」
佐々岡はそのままドアを閉めようとする。ゆかりは慌てて、ドアの隙間に足をねじ込んだ。
「待って!最後に一回でいいから、話しましょう!お願いします!」
「もうダメです。僕はどうかしていました。お酒の勢いで、取り返しのつかない失敗をおかした」
「じゃあ一緒に乗り越えましょう!私が先生を支えますから…!」
「それはあなたの役目じゃない。あなたが支えるのは僕ではなく、家族だ。信頼を取り戻さなくちゃいけない」
「待って!」
佐々岡はゆかりの足を隙間から追い出し、そのまま勢いよくドアを閉めた。
「あなたがいないと私の心も壊れてしまう!」
マンションの廊下には、ただゆかりの叫びが響くだけだった。