われわれが人生の意味を問うのではない、問われているのだ
ヴィクトール・フランクルについて、みなさんご存じでしょうか。
第二次世界大戦中にナチスドイツによって強制収容所に送られ、奇跡的に生還した経験を記した著作『夜と霧』を出版し、世界的に有名になった人物です。
この本はいまだに読み継がれているベスト&ロング・セラーで、読んだことがあるという人も多いかもしれません。
このフランクルの別の著作に、自身の半生について綴った『フランクル回想録』(「テツガク人の書棚」参照)があります。
そこには、フランクルがたどった波乱万丈の生涯が抜群の面白さで綴られています。
しかし私がこの本を読んで大きな衝撃を受けたのは、次の箇所でした。ちょっと引用してみます。
まず第一に、そもそもわれわれが人生の意味を問うべきなのではなく、われわれ自身が問われているものであり、人生がわれわれに出した問いに答えなければならない。
そして、この人生の問いに答えられるようになるためには、われわれは自らの存在そのものについて責任を担わなければならないということである。
ヴィクトール・フランクル『フランクル回想録』より引用
フランクルが私たちに教えてくれること
いかがでしょう。フランクルの言葉、みなさんはどのように感じられましたか?
冒頭でも触れたように、通常私たちは、「人生の意味とは何か」「私は何のために生きているのか」という問いを立てるものです。
これに対してフランクルは、私たちが人生の意味を問うのではなく、「私たち自身が人生の意味を問われていると考えるべきだ」このように主張するわけです。
考えてみると、すべての人にあまねく共通する人生の意味など考えられません。人それぞれに、その人なりの人生の意味があるはずです。
こうした人生の意味が、決定論的にあらかじ決まっているものであるならば、「私の人生の意味とは何か」と問うこともできるでしょう。
しかし、私たちは自由意思のもと、瞬間そのまた瞬間に、何かを選択して、何かの可能性を実現します。
可能性の実現とは、そこに隠れていた意味を現実のものにすることです。
この作業を実行するのは私たち自身であり、決定論的に決まっているものではありません。
それゆえに、人生の意味は問うものではなく、問われているのは自分自身だと、このようになるわけです。
加えて、自らの選択は、自らの自由意思のもとに行われるものです。その選択に対して責任をもつのも私自身です。
人生に意味を見つけ出す責任に加え、見つけ出した意味についても、私たち自身が責任を持たなければなりません。
そこにあるのは極めて実存主義的な態度です。いまさらながらフランクルの著作は、私にこれらの点を気づかせてくれました。