クィアマガジン「purple millennium」を運営し、LGBTQ当事者としての経験や考えを発信しているHonoka Yamasakiです。
私たちの暮らしのなかには、テレビやインターネット、広告などが当たり前のように存在し、情報過多な時代を過ごしています。
近年のメディアは、「女性らしさ、男性らしさ」よりも「自分らしさ」に焦点を当てているかのように受け取れますが、長い歴史が積み上げたジェンダーステレオタイプにより、ジェンダー差別にあたるような広告や表現はまだまだ無数に散りばめられています。
同時に、いままで善とされてきたものが、現代では次第に問題視されるようになりました。つまり、いま使われている言葉が一年後には差別用語となる可能性もあるのです。
近年主張されつつある「多様性」や「自分らしさ」において、すべての正解を知る専門家や、これからを予測する研究者は存在しません。
そんな時代に生きる私たちには、一人一人が一緒に学んでいくことが必要。そして、毎秒無数の情報を見聞きする時代で、メディアから与えられる無限にある情報をすべて鵜呑みにするのではなく、自分でしっかり判断する力も必要です。
密接につながるメディアが生むものとは
メディアは、いまや私たちの生活とは切っても切り離せない存在となりました。
コロナ禍で海外に往来できなくなった状況でも、海外からのタイムリーな情報を入手できたり、働き方がリモートワークへと移行されつつあります。
オフラインでしかできなかったことがオンライン上で完結するようになったことは、一見ポジティブにも受け取れますが、反面、メディアにおけるネガティブな側面もあることを忘れてはなりません。
営利目的としたメディアは、受け手をいかにコンテンツに流入させるかが鍵となり、過度にキャッチーな言葉や表現を多用することで、リアルとはかけ離れた発信をすることがあります。
たとえば、芸能人の自死のニュース報道では、憶測だけで原因を開示してしまうことも多く、メディアのあり方はまだまだ問題視されている段階にあります。
我々は常にメディア環境のなかで過ごし、駅の看板、町中のポスター、テレビCM、ネット上で流れる映像など、普段から意識せずともメディアと密接につながっています。
なるべくスムーズに受け手のなかに情報を伝達するには、いままでつくりあげられてきた考えを採用せざるを得ないと考える人もいます。
そういったデフォルト化された考えにより、ジェンダーの観点からも既存の女性像・男性像が語られやすくなっているのです。
たとえば、SNS上で「いいね」が多くついたラーメン屋には、行く前からおいしいと錯覚してしまうのと同じように、影響力のあるメディアの発信は知名度だけで信用されやすくなっています。
そして、知らず知らずのうちに既存の女性像・男性像がすり込まれていくのです。
無意識の当たり前に立ち止まる
さて、先ほどから「男女」の表現を既存とは反対の順序で述べていたことに気づきましたか?なかには、違和感を覚えたという人もいるのではないでしょうか。
「女らしさ・男らしさ」「女性像・男性像」は、なぜいつも「男らしさ・女らしさ」「男性像・女性像」と男→女の順番で述べられるのか疑問を抱いたことはありますか?
「男が主、女は従だから」という意識がなくても、このように無意識のうちに男女の順序が決められていることは、これもまた既存にすり込まれた事例の一つなのかもしれません。
ジェンダー表現は、言葉一つ取るだけでも差別に加担する可能性があります。
たとえば、「女性◯◯」のような言葉を耳にしますが、ここで立ち止まって考えてみてください。「女社長」とはいうけど「男社長」とはいわない。「リケジョ」とはいうけど「リケダン」とはいはない。
このように、わざわざ必要のない「女性」や「女」を付けることは、性別による世間の像が存在するからです。
しかしながら、このような表現を当たり前のように使うメディアは、ジェンダー差別に意識的であるとは到底思えず、同時に時代に合わせた表現を使うべきだとも感じます。