LGBTQやセクシュアルマイノリティという言葉は、ここ数年で日本でもよく聞くようになった。セクシュアルマイノリティの友人を多く持つ筆者としても、以前よりはだいぶまわりの認知や理解が深まってきたとは思う。
しかし、このような話題になると、なぜか拭えない違和感のような、「?」が残る空気感をときどき感じる。それはもしかしたら日本人特有の、無意識の感覚や感情の部分に関係しているのかもしれない。
違和感の残る言葉
「普通は」「一般的には」「多くは」など、日常会話でよく耳にするこれらの言葉。おそらく無意識・無自覚で使われることもあるだろう。しかしこれらの言葉は、「自分以外の他者にどれだけ気を配れているか」という指標になる気がしている。
言った本人は気付いていないうえに悪気はないし、こちらも気を遣ってほしいわけではないので、その言葉を目の前で聞いたとしても何も言わずにやり過ごすことがほとんどだ。
けれど、何かもやっと感が残ることがある。悪気がないからすべてが許されるわけでもないし、私のなかでこれらの言葉たちは本来、使う際に気を遣うべきデリケートなものだからだ。
それは、私自身「いろんな意味でマイノリティ」であるという自覚や実感(疑問段階含む)を持っているからかもしれない。セクシュアルな部分のみならず、言動や行動が「なんかちょっと人と違う気がする」と、ふとよく思うのだ。
だから私はセクシュアルマイノリティを自覚している人たちには特に、言葉を選んで会話をしている。
しかし最近、セクシュアルマイノリティや障害(発達障害などを含む精神的/身体的ともに)を自覚しているまわりの人たちに対し、過敏に言葉を選び、気遣った会話をすること自体どうなのか…と疑問に思うようになってきた。
それは本当に相手への気遣いになっているのだろうか?と。