「自分と違う=普通じゃない」の?
「同時に何人も愛せる…「当たり前」が苦しかったポリアモリストな私」で紹介したポリアモリーを自認する彼女のように、「これはこうである」とラベリングされることで安心できる人もいる。
しかしそもそも、「同じ人なんてひとりもいないしね」「ひとりひとり違って当然だよね」とみんなが思う前提ができてこそ、初めて、本当に思いやりのある人やチーム/グループになるんじゃないだろうか。
まさに、「みんな違ってみんないい」。さすが名高い詞人はよくいったもんだ。
話を戻すと、「普通は」「一般的には」「多くは」などの言葉を日ごろ常用しがちな人は、相手の考えや個性を認めないような空気を作っている可能性があるということを、忘れてほしくない。
なかでも個人的に違和感や嫌悪感を覚えるのは「普通は」という言葉だ。
そもそも、「普通」ってなに?「普通」という言葉自体、捉え方や感じ方は人それぞれだろう。しかし、その言葉を使う人というのは常に、自分と同じような感覚を持つ味方を増やして安心したい、という欲求のようなものがある気がする。
「あの人、変わり者でしょ。だって自分のまわりにほかにはいないから」って悪気なくいってしまう人もいるかもしれない。だが実は、知らないだけでほかにもいるかもしれない。目の前の人もそうかもしれないということを、決して忘れてはいけないと思う。
知らないということは、もしかしたら自分が相手に「いわせてあげられていないのかもしれない」ということでもある。
つまり、自分が発するちょっとした言葉で相手が伝えたいことを自由に話せなくなってしまう場合があるということを、私たちは常に肝に銘じるべきだろう。知らず知らずのうちに差別的な発言になってしまっていないか、特定の個性を排除する発言をしていないか、ということは日々振り返りたい。
真のダイバーシティとは
マジョリティとか、マイノリティとか関係ない。個人を尊重する。
繰り返しになるが、これはいまを、これからを生きる人たちが持っていた方がいい感覚なのではないだろうか。それこそが思いやりとなり、相手に違和感を持ったとしても「この人は自分にない考えや価値観を持っている人なんだ」と思うことにつながる。
こういうことが当たり前になっていくことで真のダイバーシティが実現するだろう。そうなると、マイノリティとかマジョリティといった言葉自体廃れていくかもしれない。目指せ、死語!(笑)
「自分や自分のまわりの感覚、考え、価値観こそ正しい」というようなことは絶対にあり得ない。だからいいたいんです。
「人をカテゴライズするのって、なんかもうナンセンスじゃないでしょうか?」
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