マイノリティをカテゴライズする意味は?
「オネエ」とか「オカマ」などと“ラベリング”されたタレントさんが、LGBTQを扱ったテレビ番組のなかで語っていたことが印象的だった。覚えている限り、内容はざっとこんな感じだ。
そもそもこうやって、LGBTQがどうのとか、セクシャルマイノリティだからどうのとかわざわざ取り上げられている時点で正直、全然迎え入れられている感じがしない。こちら側からしたら、『ただ普通に生きているだけですけど、何か迷惑かけているのかな?』って、つい思っちゃう。よかれと思ってやってくれているのもわかるから、いいづらいけど。
差別って何なのかと思います。早くこの国も、いろんな人が一緒に暮らしている感じがもっと普通になって、こんな話題すら出ないくらい当たり前になったらいいのに。
まったくその通りだと思った。
そしてこの方が語ったことは、ゲイやレズビアンといったセクシュアルマイノリティを自認する友人知人たちが話していたことと同じだった。
「LGBTQやセクシュアルマイノリティが暮らしやすい社会を」という風潮は、一見すべてのマイノリティをサポートしているようだが、自らの性的指向等を表明(カムアウト)している人やこれからする(したい)人にとってはよくとも、「マイノリティであることを表明せずに生きていきたい」という人にとっては、歓迎できない側面もある。
これは実際に知人の身にあった話だが、知人の従姉妹であるトランスジェンダー女性(MtF)を含む親族で集まった際、ある人の「いまはみんな理解があるから受け入れるよ」「最近テレビで特集を見たし」という言葉によって、彼女はなかば強制的に両親の前でトランスジェンダーであることのカムアウトを求められたそうだ。
当時、彼女はまだ高校生であり、性別移行の手段について知人に相談し一緒に調べている途中で、普段は男性用の服を着用していた。
「理解のない親と離れてから、自分のなりたいようになるね」とひっそり話していたそうだが、カムアウトを勧めた人は、彼女のPCの履歴などから見当をつけたのだろう。おそらく善意の誘導…しかしなかばアウティングに近いこの出来事から、彼女は両親やそのほかの親族に「病気だ」と責められ、ひどく傷付く結果になった。
これはただの一例ではあるが、「誰もが暮らしやすい社会を!」をスローガンにさまざまなキャンペーンが行われることを好ましく思わない人も、事実いるのだ。
もちろん、キャンペーンやイベントによるセクシュアルマイノリティの認知・理解が深まり、より生活しやすくなった方もたくさんいるだろう。しかしそもそも、誰もが自分の思うように生きることができる環境が、もっとも重要だ。
それに「マイノリティを受け入れよう」「多様性を認め合う社会に」などと発言する人にとって、そもそもマイノリティはわざわざ受け入れて“あげる”べき存在なのだろうか。認めて“あげる”べき個性なのだろうか?こういった発言こそ、マジョリティ側の傲慢ではないだろうか。
存在を「受け入れる」「認める」べきなのではない。だって、電車でたまたま隣に立った人やすれ違った人…つまりすでに存在している人のことを、わざわざ「受け入れる」「認める」なんて考えないはずだ。