「マイノリティ」を死語に
いつかの懐かしい曲のようだが、この世に生きている人間みなが、オンリーワンでオリジナル。
もちろんカテゴライズすることわかりやすく、便利になることはたくさんある。セクシュアルマイノリティとマジョリティ、健常者と障害者、老人と若者、既婚者と未婚者、子育て世帯と非子育て世帯、未成年と成人、会社員と非会社員などなど…。あえて出して挙げればきりがない。知っていた方が助かることなども、もちろん多々ある。
けれど、いちいちカテゴライズしすぎじゃない?細かくわけすぎじゃない?って思うことも正直ある。その際たる例が、流行りや内輪内でのカテゴライズだと、個人的には思っている。
「あの人あっち派の人だよね」「あの子って〇〇系よね」…それ、いる?
例えばファッションなどは、経済のためにも流行を作り出さなければならないし、テイスト別にカテゴライズすることでわかりやすくもなる。モノやサービス、それに関わること自体へのカテゴライズも必要なシーンがあるだろう。
残念なのは、ときにカテゴライズするための言葉がいち個人を傷つけてしまうことだ。○○系のファッションについての批評や意見はあってもいいと思うが、それを好んでいる人への悪口になっていないかという点は、気をつけなければならない。こういうことの認識や感覚のズレなどが度を超えたときに、批判やいじめになってしまうからだ。
横並び、平均的、頭ひとつ出ないように、みんな一緒に、目立たないように…。これらの感覚また言葉は、ときに「日本人的」と揶揄されるときもある。確かに日本人のなかにはそういう人たちも見受けられるし、好ましいと思ってやっているフシがあると感じることもある。
でも、だからこそ、ひとりひとり違う「個性」というのを見えにくくしてしまっているということを、多くの人に気づいてほしいと思う。
そもそも、もうそんなことをいってるときじゃない気がする。現在アラフォーの私が思っていたよりも早く、時代は動いており、その感覚に乗り遅れてはいけないように思う。人間の数だけ個性がある。老若男女も人種も何も関係ない。
そう、だから、マジョリティだから…とかマイノリティだから…みたいな文章ができてしまうこと自体、もう終わりでいいんじゃないかと思うのだ。