心の霧を祓う強運アクション。龍神を自分に通す呼吸法

image by:大杉日香理
ここまで読んでくださったあなたも、もしかしたら心が霧に覆われてしまったような感覚を持った経験があるのではないでしょうか。
未来の方向性が見えず、努力してきたことも正しいのかわからなくなる。心の霧は、判断や行動の力を奪ってしまいます。
そんなときに役立つのが、日常の中で簡単にできる「心の霧を祓う強運アクション」です。
これは特別な準備も道具も必要ありません。数十秒でできる呼吸法ですが、続けてみると心と身体の奥にまで風が通る感覚を覚えるでしょう。
先ほどご紹介した彼女も、この強運アクションを今でも続けているとのこと。
心が曇っていた時期、評価をめぐる不安で息が詰まるような日々の中で、この呼吸を繰り返すことで少しずつ霧が薄れていったからだそうです。
やり方はとてもシンプルです。
- 息を吐き切ります。胸の奥の息まで押し出しましょう。心の淀みや余分な思考を外へ送る感覚で行います。
 - 頭頂に息を吸い込む意識で、ゆっくりと息を吸っていきます。
 - 最後に、口から勢いよく吐き出します。
 
風を起こすように、目の前の霧を吹き払うように、強い息を解き放ってください。
力強く吐き出すことで、心に停滞していたものが押し出され、空間に風が走ります。
この一連の呼吸を3~5回ほど繰り返すと、頭の中がすっきりして視界が開けたように感じられるでしょう。
五感が少しずつ研ぎ澄まされ、周囲の音や匂い、空気の質感まで敏感に受け取れるようになります。
この強運アクションはリフレッシュするためのものではありません。
龍神の流れを呼吸という流れに見立てて、あなたの体の中に通していくもの。
吸い込む息は流れを迎え入れ、吐き出す息は流れを通す。
龍神は外を流れるだけでなく、呼吸を介して私たちの内側をも巡っていくのです。
神社にお参りするとき、多くの人が無意識に深呼吸をします。境内に入った瞬間の澄んだ空気は、私たちに自然と吐いて吸うリズムを促すのです。
この強運アクションを、神社へ参拝された際に行ってみてください。鳥居をくぐり、神社の静寂な空気を感じながら、胸いっぱいに息を吸う。
実際に取り入れてみた方からは、「朝の出勤前に数回するだけで気持ちが軽くなる」「人前で話す前にやると声が出やすい」「夜眠る前に行うと、余計な考えが落ち着く」といった声をいただきます。
短い時間でも続けることで、自分の中に流れが戻り、停滞感が減っていくのです。
先程の彼女も、この呼吸法を実践する中で少しずつ心の霧が晴れました。
気づけば、以前なら緊張していた場面でも落ち着いて対応できるようになり、その変化が新しい上司や同僚の評価にもつながったとのこと。
この呼吸法は、強運を受け取るための準備でもあるのです。
心が静まれば霧が薄れ、光に気づけます。その小さな気づきが次の選択を変え、龍神の流れと噛み合ったときに、現実が動き始めるのです。
大自然の風や水の流れを、そのまま自分の身体と心に招き入れ、循環させる。呼吸を重ねるたびに、あなたの中を龍神の流れが駆け抜け、霧を払っていく。
その感覚を意識すると、強運はより身近に感じられるでしょう。
もし今、あなたが立ち止まってしまいそうな状況にあるなら、ぜひこの呼吸法を試してみてください。
数回の息の循環の中に、霧を祓って光を迎え入れる手がかりが見えてくるでしょう。
神社学と大自然。祈りの場が育む強運の知恵

image by:大杉日香理
呼吸という日常の動作を通しても、私たちは龍神の流れを自分の中に通すことができます。
けれど、ここで立ち止まって考えたいのは「なぜ呼吸という小さな行為が、強運を育てることにつながるのか」という点です。
その背景にあるのが、神社学の根底を支える大自然へのまなざしです。
神社学の視点では、神様とは人の形をした存在にとどまりません。
山や川、風や大地そのものが神性を帯びています。
日本は国土の約7割を森林が覆い、四方を海に囲まれた土地です。山は水を生み、森は命を育み、川は流れを運ぶ。
古代の人々は、その大自然の力を畏れ敬い、日々の暮らしと切り離さず祈りを捧げてきました。
山岳信仰においては、その象徴がよくわかります。
たとえば八ヶ岳の赤岳。山の頂には奥宮が鎮座し、そこまで登れる人は祈りを捧げました。
しかし誰もが登れるわけではありません。体力や天候、生活の事情もあります。
だからこそ、麓には里宮が設けられ、日常の祈りをそこで続けてきました。
山そのものが御神体であり、奥宮と里宮という仕組みは、大自然を崇めながら共に暮らしてきた日本人の知恵なのです。
このような世界観では、龍神は特別な存在ではなく「流れ」の象徴として人々のすぐそばにあります。
川のせせらぎや風の通り道を龍神と感じ、そこに祈りを込めることで、流れを味方につけてきたのです。
龍神は水や風を通じて停滞をほどき、動きをもたらす。だからこそ、龍神は強運の象徴なのです。
運気とは流れであり、その流れを感じ、受け取り、活用することで、人生の必然が開かれていくのです。
しかし、この自然観は、明治以降の西洋化の流れの中で少しずつ姿を変えたのです。
自然を畏れ敬う対象とするのではなく、管理し、征服し、資源として利用するという考え方が基本となり、その結果、山や川に宿る神性が見えにくくなり、神社も「観光地」や「願いを叶える場所」としての側面が強調されるようになりました。
もちろんそれも神社の大切な役割のひとつですが、本質はもっと奥にあります。
神社学で大切にしているのは、この「大自然=神様」という視点を取り戻すことです。
木々のざわめきや川の音に耳を傾けるとき、私たちはただ物理的な自然を感じているのではありません。そこに宿る神性に触れているのです。
そして龍神の流れを呼吸に重ねるとき、私たちは外の自然と内なる身体を一致させています。
内外がつながったときに、偶然に見える必然の流れ、すなわち強運がひらきます。
こうして考えてみると、強運とは決して神秘の中だけにあるものではありません。
むしろ、自然と共に暮らし、流れに寄り添ってきた人々の知恵の延長線上にあるのです。
これまでの著作などでも、龍神を「流れの象徴」としてお伝えしていますが、私自身がこれまでの巡拝の中で、幾度も「流れに導かれる瞬間」に立ち会ってきました。
そのひとつが、栃木県の日光での体験です。
日光の霧と龍神。光を受け取る巡拝体験

image by:大杉日香理
日光の土地に入ると、まず光そのものが変わります。山の稜線を越えて射し込む陽は、どこか柔らかく、それでいて重みを帯びていました。
参道を歩くたびに杉の巨木が高くそびえ、まるで門をくぐるように私を迎え入れてくれるようです。
その奥へ進むほどに、外界との境が遠ざかっていくのを感じます。
中禅寺湖に近づいたころには、濃い霧が一面を覆っていました。湖面はまったく見えず、一歩先の岩の輪郭さえ曖昧になるほどの白。
冷たい空気が肌を刺し、衣服の上からも水滴が染み込むような感覚。静寂の中で、ただ水の音だけが、深く響いています。
そのときでした。霧の奥から声が伝えられました。耳で聞いたのではなく、胸の奥に直接注がれるように。
言葉ではないのに確かに理解できる。風が背を押し、水面から立ち上る霧が道を示し、龍神の存在がそこにあると告げられました。
「霧の向こうには必ず光がある」という声。そのことを伝えてほしいとも。
この土地には古くから龍神伝承が息づいています。
華厳の滝は龍が息を吐く場所、中禅寺湖は龍神の棲む湖とされてきました。
奈良時代、勝道上人が湖畔で修行をしていた折、荒ぶる龍が姿を現したと伝えられます。
人々は恐れましたが、上人は祈りによって龍を湖の守護神へと導いた。
排除ではなく共に在ることを選んだその姿勢こそ、信仰の本質でした。
この日光での体験は、龍神が「流れの象徴」であることを改めて教えてくれました。
霧で閉ざされた景色も、龍神の働きによって道が示される。
その霧を晴らすのは、人の思考や力だけではなく、大自然とつながる感性なのです。
日光で霧の中に立ったとき、私が受け取った確信はこうです。
霧は誰にでも訪れる。
しかし霧の奥には必ず光があり、龍神の流れはそこへと背を押してくれる。
その光は偶然ではなく、人生を進む上で必然の導きなのだということ。
だからこそ、霧に立ち止まることを恐れる必要はありません。
霧が深いほど、晴れた時に射し込む光は鮮烈で、進むべき道をはっきりと浮かび上がらせてくれます。
中禅寺湖での巡拝は、そのことを全身で受け取る体験でした。
この邂逅の後、神旅に前述の彼女が参加され、の姿と重なります。組織の中で評価を失い、未来が見えず、心が霧に閉ざされた彼女。
けれど神旅で「一番星は雲の奥にある」と気づき、龍神の流れを自分の中に通すことで現実が変わり始めました。
霧が晴れるように、環境が動き、人との関係が変化していったのです。
- image by:Shutterstock.com
 - ※掲載時の情報です。内容は変更になる可能性があります。
 


0 件
				