いまの時代、アメリカ・ロサンゼルス(以下、LA)に居ながらにして、日本のテレビやメディアの情報をリアルタイムで知ることができるようになりました。
日本ではメディアがよく「アメリカで大流行」などの謳い文句を使っていますが、嘘が多いのも事実。私のメルマガ『FROM LA TO JAPAN』では、LAから見た日本への個人的意見も含め、本物の情報を発信しています。
昨年、マイケルジャクソンの長女(パリス・ジャクソン)が「自分の裸を見せる自由を…」と、ジャン=ポール・ゴルチエによる“裸ドレス”を着用し話題になりました。
女性の裸のパーツが描かれているこの服は、性差別に対してわかりやすい意思表明だと言います。
毎度お騒がせなこの方。わき毛を生やしたり、全身タトゥーの姿を見せたりと、ファッション界のインフルエンサーなのですが、こういういかにも「いまの時代はこれよ!」とばかりに自由をはき違えている申し子たちが多すぎると思います。
パリス・ジャクソンの思想は、ただの自己主張。見ている方は、とても不快です。
食事中に、こういう彼女の自己主張を見せられた日には、たまったもんではありません。
何でも主張すればいいというものではありません。礼儀と節度、TPO…大人であれば相手を配慮するという「わきまえ」がなければならないんです。
自由の主張は結構ですが、そこに「責任」という文字が見当たらないのはどうしてでしょうか?
個人の主義主張を押し通すなら、それを受ける人、見る人、子どもや社会的影響という「責任」を持つべきであると私は思います。
個人の思考や美学を否定してはいけない…といういまの傾向に、誰もが口を閉じる必要はないのです。
「否定してはいけない」が自由を奪っている
「否定してはいけないムード」が、実は自由を奪っていることにはなりませんか?
社会に対して主張するのは、大いに結構。ですが、それを誰もが「認めなければならない」という法律などはありません。
人間は、社会のなかで生きています。
2020年、ブラック・ライブズ・マター(BLM)という運動がありました。
アフリカ系アメリカ人に対する警察の残虐行為をきっかけにアメリカで始まった人種差別抗議運動で、暴動が起きたのです。
私は、もっと前の1992年にロサンゼルス暴動を体験しています。
これも、ロドニー・キングという黒人男性が、白人警官に殴打されるなど激しい暴行を加えられたことによって勃発した暴動です。
このときの私は、まだロスに来たばかりのころでした。
日本でもこの様子は報道されたと思いますが、まるで戦争。黒人対白人の暴動ではなく、実はアジア人(韓国系)への被害も多かったんです。
要するに、便乗。暴動を起こす人、それを制圧しようとする人、この対立に便乗して、あちらこちらで強盗事件が起きました。「ついでにアジア人の店も襲っちまえ~!」というやつです。
街のなかには戦車が出向き、火炎瓶による放火に数十台の消防車が出動。住民は家から出ることを禁じられ、買い物に出ようものなら、軍服の兵隊に制圧される。
当時私は暴動の中心地に住んでいたので、銃の鳴り響く音を映画以外で初めて耳にした怖い思い出となりました。
そして、2020年に起きたBLM。これも黒人に対する白人警官の不当な扱いにより火がついたわけですが、それに便乗した犯罪が多かったです。
全く関係のない店や家屋が壊され、強盗に窃盗…。「主張」のはずの運動が、「利用」された形となったのも事実。
悪いことをしていても、「差別だ!」と叫ばれると、どうしようもありません。
というように、「差別からの自由」を主張し、身を守ろうとする便乗型もいます。
BLMではなく、オール・ライブズ・マター(人種に関わらず、すべての命が大切)。これが一番なのではないでしょうか?