生きるという選択をした、あの日のぼく
京都には、ぼくの大好きなおばあちゃんが住んでいる。父方の祖母は嫁いびりをするネチネチした人だけど、母方の京都のおばあちゃんはこざっぱりしていてとても優しい。
失敗して、家に帰って、死刑に処されるくらいなら、このまま京都に逃げよう。優しくて大好きなおばあちゃんの家に行って、おばあちゃんの膝に体を投げ出して、いっぱい甘えて抱きしめてもらおう。
頭の中で、なにかが弾けた。ぼくは立ち上がり、その足で品川駅に向かった。時刻はたしか14時過ぎで、みどりの窓口のお姉さんに「京都に行きたいんですけど」と告げると、ついいましがた昼の長距離バスが出てしまったところだと教えられた。
次のバスは夜行の21時発しかないと言われたが、新幹線代には少し足りない。手ぶらのぼくを訳ありだと受け取ったのか、お姉さんは親切に「鈍行の乗り継ぎなら、ギリギリ足りますよ」と教えてくれて、ぼくはすぐにそれでお願いしますと返した。
21時までこんなところでもたついていたら、父に見つかって家に連れ戻されてしまう。それだけは、なんとか避けたかった。
生きたかったのだ、きっと。どうにかして生き延びたかった。早く楽にしてくれと願いながら、いつでも死ねるように盗んだ“父の仕事道具”を1年間もバックパックに忍ばせていながら、心の奥底では生きたいと願っていた。
あの父の言い分が理不尽なことに気がついていながら、それまでぼくはなにひとつ行動に移せやしなかった。でもやっと、この瞬間に、自分があの父の一部なんかじゃないことを、自分が「個体」であることを認識できたのだ。
改札をくぐって電車に飛び乗ると、急に心臓が激しく脈打ち出した。まるで息を吹き返したみたいに。自分の力で、自分の意志で、生きるという選択をしたこと。座席に座った瞬間やっとそれを実感して、ぼくはしばらく呆けていた。
「逃げなかった」のではない、「逃げられなかった」のだ
虐待の痛ましい報道がなされるたび、みんな口をそろえてこう言う。「逃げればよかったのに」と。被虐待児が一定の年齢を越えていると、なおさら。
違う、「逃げなかった」んじゃない。「逃げられなかった」のだ。ぼくはあのときたしかにもう18歳で、精神的にはほぼ大人だった。でも、生殺与奪の権利を握っている「保護者」という存在に、長い年月暴力という重たい鎖でがんじがらめにされ続けた心は/脳は、正常に機能などしない。
事実、ぼくはあのとき自分のお年玉が家のどこに隠されているのかも、母のへそくりのありかさえ、知っていた。もっと前にそれを持ち出して逃げることは可能だった。理屈の上で言えば。でも、できなかった。
逃げ出せるはずの状況で、「逃げられるはずがない」と思い込んでしまう。本来であれば自分を大切に慈しみ守ってくれるはずの人間から暴力で自我を封じ込められ続けると、自分が「自分」であることを見失ってしまう。意思を持った「個体」であるという当たり前の事実すら、わからなくなってしまうのだ。
ぼくの家出は、「家出」なんて呼べるほど大層なシロモノじゃない。結局は新幹線で先回りしていた母に京都駅八条口でとっ捕まるという、なんとも情けない幕引きに終わった。それでも、そんな生ぬるい甘ったれた逃げ方が、18歳のぼくの精一杯だったのだ。
「逃げればよかった」というけれど、そんなに簡単なものじゃない。問題はもっと根深く複雑で、死ぬことも生きることもできずにただ立ち尽くしている子どもたちがそこにいる。かつての、死刑執行日を震えながら待っていたぼくのように。
あの日、執行に失敗し、いつもより所持金を多く持ち、弾かれたように鈍行列車に飛び乗る体力が残っていたから、ぼくは幸運にもいまこうしてキーボードを叩いている。
結局、その家出が父への牽制になったらしい。それ以降、あれほど執拗だった折檻(せっかん)はぴたりと止んだ。世間体を何より気にする父は、「子どもを自殺に追い込んだ父親」になることを怖れたのだろう。早稲田の法学部を強いることはなくなり、ぼくは1年間の浪人を経て自分自身で決めた大学に進学した。
いまでもときどき自分が本当に「自分のもの」なのか、わからなくなるときがある。ひょっとするとぼくは水槽にぷかぷか浮かぶちっぽけなピンク色の脳みそで、いまぼくが見ているこの世界は、父がスイッチを押したりして流す電流によって見せられている幻影なんじゃないか。ぼくは意思ある「個体」ではなくて、あの父の手足の末端にひっついているただのパーツなんじゃないか。
ときおり不安で不安で仕方なくなって、だからぼくは、ピアスを開けてタトゥーを入れる。この身体がきちんと自分のものであることを実感するために。その証拠が何よりほしくて、喉から手が出るほどにほしくて、だからぼくはぼくの身体に、わかりやすい“しるし”をつけるのだ。
それを見て、「親からもらった大事な体に傷をつけるなんて」と眉をひそめるひともいる。でもぼくは、この身体がいまだ親の所有物であるという思い込みから解放されたくて、必死にもがいている。
大袈裟だと思うだろうか。被害妄想だと切り捨てるだろうか。自己憐憫(じこれんびん)に酔っているだけだと、鼻で笑うだろうか。