今回のテーマは、「愛と赦しの深層」です。愛はもちろん「神の愛」です。
赦しという文字は、人を火で清める意味の「赤」の偏と、人を打って死刑にする刑罰器具の「ボク」(つくり)を合成して、「罪一等を免ずる」という意味になっています。
つまり、赦しとは、万死に値する状態から、神の愛によって死罪から救済し、再度、人として生かされて、悟りの機会に恵まれる意味となります。
すなわち、「神の愛と赦しの深層」は同一の意味なのです。
その前に、立ちはだかるのが、「悔い改め」です。「悔い改め」が赦しに先行しなければならないのです。その良い例が、「放蕩息子の例え」です。
父の財産を蕩尽(とうじん)してしまい、自らの行いを悔い改めて父の赦しを乞うことで、父の許に帰還を果たす話です。
人間も、五感の感覚に溺れた生活から足を洗い、自らの行いを悔い改めて、初めて神の国へと歩み始めることができるのです。
今回は、皆さんの日常生活を、自らが悔い改めることができるかどうかという原点に戻ってみることにしましょう。
人によっては、かなり厳しい話に思えるかもしれませんが、それ程に「悔い改め」は、重要なプロセスなのです。
そのためには、明想の繰り返しが必要な場合もあるでしょう。本文をお読みいただいている途中でも、遠慮なく明想してください。
その先が、見違えるように理解できるはずです。繰り返しますが、明想は不可欠の作業です。
では、早速始めることにします。
1. 父なる神の愛

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父なる神は、無限の愛の力を全宇宙に放射している。その放射する遍満の愛に1mmの隙間もない。
父の愛は、太陽にも月にも地球にも、分け隔てなく注がれている。地上の生物の細微に至るまで、少しの分け隔てなく注がれている。
あの人には、少ししか注がれていないとか、あの方にはたくさん注がれているという差別的な愛の注がれ方は全くない。
そう思うのは、人間の心の中だけである。
改めて言っておくが、「神に愛されていない人は、一人もいない」のである。人間、皆、平等に神の愛を受け取っている。
父なる神は、万象万物を分け隔てなく同じ愛を以って創造したのであることに、思いをいたしてほしい。
その思いに気づけば、 神が「この世の礎を愛に置いた」意味がわかるであろう。
神の愛の終極の目的は、すべての魂の間の「愛と平安、調和と善意」ということも自然に理解できる。
理解した上で、神の愛の終極の目的を実感することに、一意専心・努力してもらいたい。頭で理解したのでは、心の上辺のみでの理解である。
なぜなら、あなた方は、ハートで感じなければならない。父なる神の愛・生命が宿る中心に於いて、感じていなければならないのである。
そうして初めて、神の国を観ることができるのである。
そのためには、「見える世界の日常生活の体験」と「明想」の組み合わせがバランスしていなければならない。「日常生活の体験」と「明想」の時間・質の均衡が何よりも大事である。
神の国を観るのに、なぜ「日常生活の体験」が必要になるのか?次の項目で、さらに深層を探っていきたい。
2. 放蕩息子の赦し
神の国を観るなら、明想だけをすればよいのではないかと思っているあなた!
肉体を持っている以上、肉体の制約からは逃れられない。その制約を振り切って肉体を持ちながらも、神の国を観るには、「日常生活の体験」を浄化しなければならない。
「日常生活の体験」の中には、五感の感覚がいっぱい詰まっている。
五感の感覚を鎮めるより、積極的に五感の感覚の背景に潜んでいる自分の「嫉妬心・妬みの心・差別感」を『悔い改める』ことによって「日常生活の体験」の浄化が進むのである。
一つひとつの感情の原因である「嫉妬心・妬みの心・差別感」を消すことがあなたの浄化につながるのである。「嫉妬心・妬みの心・差別感」が浄化されれば、心が騒ぐことはなくなる。
聖書には、放蕩息子の例えが載っている。詳しくは聖書を読めばよい。
それよりも、父の財産を蕩尽してしまい、父の許に帰還できたのは、自らの行いを「悔い改めた」からに他ならない。
心の底から自らの行いを「悔い改めた」ことによって、放蕩息子の心は浄化され、父の赦しを得ることができたのである。
皆さんの日常生活は、五感の感覚にまみれているはずである。その五感の感覚の浄化が、神の国を観るためには、非常に大事な要件なのである。
3. 皆さんの日常
日常生活を漫然と過ごしてはならない。手帳やスケジュール表を埋めて満足してもならない。
肉体を持っている間にしか、心は清めることができないことを、再度あなた方の心に刻み付けておきたい。
日常生活は、一刻・一刻が神の国を観る貴重な体験であり、瞬間なのである。それほど、日常生活は神の国と背中合わせなのである。
人と触れ合う機会は、自分の内面の成長の機会であることを忘れないでいただきたい。それが、たとえ家族であったとしても、である。
神意識に至る道は、特殊な道ではない。日常そのものが神への道であることを意識してもらいたい。
あなたが神意識に気づいた時、あなたの日常の生き方がよい方向に変化するので、心にも平安が訪れる。
日常生活が平安になるのも、自らの行いを「悔い改めていること」が条件なのである。
4. まとめ
「赦しには、悔い改めが先行する」と、イエス・キリストが言い遺しているのは、それを理解できる人のためである。
今回ここに、その真実義を深層から掘り起こしてご案内してきた。心して「愛と赦しの深層」を読み返していただきたい。
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