まだまだ世間的には「弱者」な私たち
とはいえ、ネガティブな側面だけではありませんでした。レストランやホテルでは記念日プランが適応されたり、想像以上に柔軟に対応してくれるサービスが多くあります。また家族に同性の恋人を紹介したり、友達から祝福されたりなど、嬉しい出来事も同時に起きました。
一カップルとして見られることで、同性のカップルであることに誇りを持ちつつ、同性のカップルであることを忘れる瞬間もありました。少なくとも私の周りは、性的マイノリティや外国人を受け入れてくれる人がほとんどなので、個人レベルでは割とスムーズにものごとが進んだように思います。
しかし、なかにはセクシュアリティを隠している人や、会社の人に鉢合わせるのを恐れて恋人と手をつないで歩けない人もいます。性的マイノリティ当事者の集まる街「新宿二丁目」を出た瞬間、手を離して歩くカップルも見ました。
このように、状況や環境に合わせて自分を変化させて過ごす当事者は多くいます。私自身、とても恵まれた環境にはいますが、周りを気にしながら生活するかたを間近で見ることで、まだまだ世間的には「弱者」なのだと常々実感させられるのです。
同じ人間でも「選択肢」の数が違う不思議
個人レベルではラッキーでしたが、国や社会を見ると厳しい状況ではあると思います。特に外国人や性的マイノリティに対する人権が保証されていないことから、不当な扱いを受ける当事者をニュースでよく見かけるからです。
シンガポール人の恋人がいたころは、遠距離ベースの恋愛でした。相手に学生ビザがあったので、日本には数年の滞在が許されていましたが、ビザが切れた後は帰国をするほかありませんでした。交互に国を行き来していましたが、1カ月以上の滞在は一度国を出る必要があったり、条件が厳しいだけでなく、金銭的負担もかかります。
そんなとき、外国籍で異性の恋人を持つ友達が海外永住権を手に入れるために「手段としての結婚」をしているのを見て、我々には性別という壁により不可能なことであり、法律では守られない立場の人間であると実感させられました。
同じ人間のなかでも、「結婚か労働」の2つの可能性が与えられる人と、「労働のみ」の一択しか選べない人がいるのは、不思議なことです。