「毒親」。精神的、肉体的、金銭的などで子どもにとって「毒である親」のこと。
産み育ててくれた両親のことを、愛し、大切にできることは素晴らしいものですが、愛せない・大切に思えない場合も珍しいことではありません。
愛せないまでではなくても親と折り合いがよくないことは、毒親という言葉が世の中に知られるようになって、世間的にも少しずつ肯定されるようになったように感じます。
大切にできないよりはできたほうがいいと理解したうえで、自分の親が「毒親」ではないのに苦手だと思ってしまうとしたら、その子どもは親不孝なのでしょうかか。そう思ってしまう僕は、親不孝なのでしょうか。
今回はセクシュアルマイノリティライターの僕と、けして毒親ではない母について少しだけお話します。
母は尊敬すべき人
幼い子どもにとって親は、絶対的な存在であることがほとんど。
子どもがある程度成長すると、同じ“大人”になったうえで親のことを客観的に見て「やっぱりすごい」となる場合もあれば、よくも悪くも「なんだ自分の親もただの人間なんだ」と考えるようになったりします。
この記事を読んでくれているかたのなかにも、そんな経験をした人はいるのではないでしょうか。どちらかと言えば、前者よりも後者のパターンの方が多いかもしれません。
僕にとっての母も、幼いころから大学進学を理由に家を出るまでの間は絶対的な存在で、母の言うことがいつも正解で僕にとっての正義でした。
母は学生のころに父(僕にとっての祖父)を亡くしています。働きに出る母(僕にとっての祖母)に代わって長女として家庭内を切り盛りし、弟と妹の世話をしていたことから、母方の親族にとって母は尊敬すべき存在でした。
父と結婚した後は、父との家庭で抱えることになった金銭トラブルの解決のため母は昼夜問わず働き、僕に2度も入院を伴う治療も受けさせてくれ、無事に大学まで出してくれました。
父が何もしなかった訳ではありませんが、どれも乗り越えられたのは母の頑張りによるものがとても大きいでしょう。
幼いころから親類から母の過去の苦労を聞き、実際に苦労している姿を自分の目で見てきたのですから、当然母には感謝しています。
本来ならば、そんな母に対して苦手だと思ってしまう僕は母にとってひどい子どもかもしれません。
母にはライターをやっていることは話していませんが、万が一この記事を読むことがあったらきっと傷つけてしまうし、もしかしたら泣かせてしまうかも…。