苦手なところ
僕が母に対して「苦手」だと感じてしまう理由のひとつは、そんな母の正しさ。もうひとつは、母がとても女性性が強い人だということでした。
女性の身体で生まれた僕は、物心がついたころから自分の性別に対して違和感があり、大人になったいまは心の性別を男女どちらにも定めずXジェンダーとして生きています。
身体は女の子だと理解できても自分のことを女の子とは思えない。かと言って男の子とも思えない。
僕が幼少期を過ごしたおよそ30年程前は、セクシュアルマイノリティの情報もほとんど得られない時代。当然、身体の性別に合わせて服もおもちゃも女の子のものを用意されていました。
性別への違和から女の子のものに抵抗感があったため、女の子らしい服装をさせたい母の好みの服や小物が嫌で。
「なんでも正しい母が用意するものを身につけることや、女の子らしくいることがきっと正しいのだろう」とも考えていたので、成長とともに母への後ろめたさが募り、やがて苦手意識になっていきました。
母から見た僕は、年頃のわりに随分服やメイクに頓着のない子だったのでしょう。
いまはメンズアイテムを中心にファッションもメイクも自分なりに楽しんでいるのですが、いまだに母のなかにいる僕は服もメイクも楽しめなかったころの僕のままのようで、未だに帰省すると服やメイクのことで茶々を入れられることがあり、その度に実家で暮らしていたころのような後ろめたさを感じて嫌な気分になります。
そして苦手意識を抱いてしまう理由の最後は、母の持つ人としての不器用さです。
一見明るく社交的な女性ですが、身内には不器用な一面を見せることがありました。
以前よく「ブサかわ」なんて言葉を耳にしましたが、幼いころから母は僕に「ぶちゃいく」と言って育てました。
本心では娘をかわいいと思っている、たとえば犬のパグやなにかを可愛がるような言い方でそう口にしたように見えましたが、言い返さないからと言って傷つかなかったわけではありません。
自分の見た目に自信を持てるようになったのも30代を目前としたころで、そう思えるようになるまで苦労しました。
決定打となったのは高校生のころ、母とふたりで話している時に一度だけ冗談で「お母さん大好き」と言った際のこと。
そのときすでに高校卒業とともに地元を離れるつもりだったので、これまでの感謝の気持ちも込めた物でしたが、返ってきた言葉は「大好きじゃなくていい」という否定の言葉でした。
「大好きじゃなくていい」その言葉は母の不器用さそのものだといまなら理解できますが、当時は勇気の要る一言だっただけにショックを隠しきれませんでした。
いまでもその瞬間と言葉が忘れられずにいるということは、苦手意識があるいまでも母に愛されたいと思っているということでもあるかもしれません。
母の不器用な面も、「親子なんだから」受け入れてやるのが世間一般の優しさなのでしょう。
しかし、もう十分母の不器用なところに刃向かわず、黙って受け入れてきたと自分では思うのです。
こうして母が何かの間違いで目にしたらおそらくショックを感じるであろう文章を書き残してしまうことを考えると、僕も母に対して不器用でこの感情は同族嫌悪のようなものなのかもしれません。