見た目は「性の表現」に過ぎない
裸になりさえすれば、その人が見た目のみ「身体的」に、男であるか女であるか判定できる。しかし身体的特徴を基準として判断される性別と、人間の抽象的部分を一致させるということに矛盾が生じるのは当たり前です。
人間誰しも、見た目だけでその人の考え方や性格などはわかりません。茶髪でチャラチャラして見える若者すべてが、不良かというと違いますよね。そう考えれば、見た目や身体的特徴だけで2つの選択にカテゴライズすること自体に無理があるのです。
「ノンバイナリ―・ジェンダー」などの単語が出てきたことにより、実はいまでも世のなかには古典的なものの考え方が残っているものだと、改めて気づかされました。
また、見た目での判断をするための「性の表現」として、「男性っぽい服、髪型、態度」「女性っぽい服、髪型、立ち居振る舞い」がありますが、それらはあくまでも「表現」に過ぎないということにも、気づかされたのです。
「どっちだって、どっちでもいい」が認められる時代
そして「果たして自分はどうなのか」と考えてみたくなりました。女性っぽい服装は嫌い。でもお化粧は好きで、性格は男性っぽいといわれるし、立ち居振る舞いには、いわゆる「女性らしさ」は皆無。身体的な性は女性ですが、性自認は「どっちでもいいや」の人間であることは確かです。
その次に「性的指向」が男なのか、女なのかを考えました。過去に男性と結婚していた私だから、俗にいう「ストレート」なんだろうけど、歳をとると、性的欲求なども全くといってなくなってしまう。
年を重ねることにより性的指向を消失した場合、どうなるのか?それこそ「どっちだっていい」わけで。そう考えながらも、書類では性別「女」にマークをして提出しました。
男か女かの選択しかなかった時代だと、自分自身を深く考えるきっかけなんてなかった。それが当たり前だったから、女か男かでいえば私は女だったのです。
心や立ち居振る舞い、表現、趣味、性格…自分は果たして「なんなんだろう」と、少しだけ考える時間を与えてくれた体験は、自分自身で大変いい経験だったと思います。
グレーゾーン。「どっちだって、どっちでもいい」っていう考えがあってもいい時代になったんだなと、「時代の進化」を肌で感じました。