心を閉ざしていたのは、自分だった
さらに思ったのは、私がなぜお友だちのママに対して「この人なら大丈夫!」と信頼を感じることができたのか?ということについて。
それは、娘の休学期間中に、家に遊びにきてくれた数少ないお友だちのひとりだったから。私にとっては、このお友だちからの声掛けが実はとてもとても嬉しかったんだ、ということに今回初めて気づいたのです。
休学をすると決めたのは私たちだし、その間学校の方と音信普通になっても構わない、むしろその方がこっちとしても都合がいい、と思っていました。私がきっと逆の立場だったら、よほどの事情があるのだろうなと思って、「腫物に触るかのように、そこには触れない」という態度を自分は取っただろうし、娘にもそうするように話していたと思ったから。
でも実際、私がその立場になってみてどうかといったら、声を掛けてもらえたことを本当にうれしく感じていたわけです。結局、私の本心は学校でご縁ある方と音信不通になることは望んでいなかったし、むしろ変わらず声を掛けてほしいと思っていた、ということに気づきました。
私は拗ねているだけでした。「どうせ私たちは理解されないでしょ。別にそれでもいいし!」と。だからお友だちのママが「信頼できる人だった」という以前に、相手のことを云々という以前に、そもそも私が心を閉ざして他人を見ようとしていなかった、ということに気づいたのです。
もっというなら、娘の泊まりにGoを出せなかったのも「私はどうせ怒られる」と思い込んでいたし、そもそも自分の子育てに自信を持てていなかったからそういった思考が出てくるのだとも感じました。
もっと自分の子育てに自信を持とうよ!私が私を信頼していなかったら、他人が私を信頼してくれるわけがないじゃん!今回の娘のお泊りは、私の心の奥深くにあったひねくれた感情に気づくことができ、私にとっても本当にいい経験でした。
娘の問題・課題にぶつかるたびに思うこと。それはいつだって、私の問題であり課題である、ということ。「世界は私が創っている」本当にこれに尽きるな、と思うきょうこのごろです。
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