自己紹介はできないけれど恥ずかしい話はできる。まめ夫で生きる人々の姿
第七話でとわ子の親友であるかごめが亡くなった後、とわ子は毎朝のラジオ体操でオダギリジョー演じる小鳥遊大史(以下:小鳥遊)と出会う。
ひょんなことから二人きりで会話をすることに。とわ子は嫌なことがあるたびに数学の問題集を解くという趣味があり、小鳥遊は大の数学好きという共通点から数学について話しだす。
小鳥遊は数学が好きすぎるあまり、とわ子の反応を気にすることなく話しすぎてしまう。途中でそのことに気づいた小鳥遊は、とわ子の好きなものの話を聞きたいと促し、とわ子はかごめの話を始める。
ここまでの流れで二人は一度も自己紹介をしなかった。初めて顔を合わせたわけではないにしろ、自らがどんな人間なのかを名乗らない(だからこそ、この後の展開に効くのだが)。
自己紹介するよりもまず、自分の好きなことを話す。そして肩書きや名前よりも、時間が経って仲よくなった後に話すような“ちょっと恥ずかしいこと” を二人は話せてしまう。
いつの時代も人間の生きる場面が変わるたびに、その人自身の立場や肩書きも変化するものだ。けれど、現代はどの瞬間でも違う自分として振る舞う手段がある。SNSだ。
Twitterでは本音を呟き、Instagramでは人にこう見られたいと思う自分を見せる。そしてもし現実世界で嫌なことが起きても、ネットの世界へ入れば違う自分になれる。
いつだって私は何者かを意識しながら生活しているのだ。自己紹介はいわば「こう見てくださいね」という着ぐるみを被った状態で他人と接すること。距離が縮まるにつれてその着ぐるみを脱いでいくのが現代の人間関係であるし、もしかしたら着ぐるみを全部脱ぐ日は来ないかもしれない。
けれど、まめ夫で存在し生きている人物は自分自身でしか生きいられない。二番目の元夫佐藤鹿太郎(以下:鹿太郎)は隠そうと思えば隠せる器の小ささや胸の内を真っ直ぐ人に伝えてしまう。
自己紹介をし、こんなふうに見られたいという自分の着ぐるみを持たずして、ありのままでいる。その苦しみや面倒臭さですら彼らは受け入れている。その代表的な存在がとわ子だった。