ひとりで生きる。その言葉の意味とは
「ひとりで生きていけるけど…」
まめ夫のテーマであるこの言葉に答えが出たのが、第九話。とわ子は慎森からとわ子の本当に愛する人は一人目の元夫、田中八作(以下:八作)であると言われ、小鳥遊からのプロポーズを断り八作の営むレストランへ行ったときのことだ。
「ひとりでも生きていけるけど、まあ、寂しいじゃん。寂しいのは嫌だけど、でもそれで誰かと二人でいたって自分を好きになれなかったら結局ひとりだしさ。好きになれる自分と一緒にいたいし。ひとりでも幸せになれると思うんだよね」
八作に対してこの言葉を放ったとわ子。そしていまでも好きだと打ち明ける。その言葉の最後には、こう話した。
「あなたを選んで、ひとりで生きることにした」
他人にこう思われたいという着ぐるみを着ないとわ子は、誰かと一緒に生きることで好きじゃない着ぐるみを着た自分になるよりも、ひとりで生きることで好きな自分として生きていきたいという。
それは、本当にひとりで生きることではなく、自分の好きな自分と一緒に生きてくれる人々を選んだということに過ぎないのだ。
とわ子は誰よりも自分という人間は一種類じゃないことをわかっている。だからこそ誰かと一緒に生きたとき、その一種類の自分でいるためにほかの自分に着ぐるみを着せることをやめたのだ。
どんな種類の自分でいても生きていける、そのためにひとりで生きることを選んだのだ。そんな誰かを選ばずにひとりで生きていこうするとわ子がいるから、周りの八作や鹿太郎、慎森、小鳥遊も自分の好きな自分でいられるのではないだろうか。そしてとわ子にとってのそんな存在が親友であるかごめだったのではないだろうか。
ひとりで生きていく。現代に生きる私たちはこれを寂しいから、苦しいからとどうしても避けて生きようとしてしまう。
けれど、一見幸せそうに見えるこの“誰かと生きる” ということは、自己紹介プロフィールを胸に貼り付けて誰かと接したり、こう見られたいという着ぐるみを着て生きていること。これは何よりも寂しいことなのではないだろうか。
まめ夫で語られる、“ひとりで生きる” ということは誰にも関わらずに生きることではなく、“好きな自分を生きる” ということ。言い換えれば、好きな自分でいるためのアプローチがひとりで生きるというだけなのだ。
私たちがとわ子から学んだこと。それは、ひとりで生きることが寂しく悲しい生き様ではなく、自分を幸せにする手段のひとつだということだ。
私も少しだけやってみようと思う。名前や年齢、職業よりも先に私の好きなものを、初めて会った誰かに話して見ることを。その行動ひとつだけで現代に生きる私たちは少し幸せに、楽になれると、とわ子が教えてくれたのだから。
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