少しずつ、でも確実に癒えていく日々
いまでこそぼくは、彼を心から愛していると言い切ることができる。でも結婚を決めたのは、「彼を愛していたから」ではなかった。結婚して半年くらい経ったころだろうか、フラッシュバックを起こしたついでに、ついそんな台詞を口走ってしまったことがある。
「知っていた」と、彼は言った。「君が結婚にも家族にも憧れていないことは、ちゃんと理解していたよ」
淡々と、抑揚のない声でそう言った彼の声は、いまでもぼくの鼓膜にこびりついている。その瞬間たしかに、ぼくは取り返しのつかないところまで彼を損なってしまった。
それこそ京都時代と同じく「命の安全が保障された場所に移ってフラッシュバックが起こりやすい状態」にあったぼくとの最初の1年間は、“新婚”なんていう甘い響きからはほど遠かった。彼にとってもぼくにとっても、いまとなっては思い出したくないくらい過酷な日々だった。
それでも、彼はけっしてぼくを放り出さなかった。希死念慮(きしねんりょ)に襲われて自殺未遂をくわだてるぼくのために彼が最初にしたことは、鍵付きの重厚な包丁ケースを購入することだった。
うつが重症化したときは、彼はそのなかに家中の刃物をしまった。剃刀からカッター、ハサミ、眉毛用の小さなものまで含めて、すべて。
鍵はぼくがわからないかつ手の届かない高い場所に隠し、ぼくが発作的に自分の身体を傷つける危険を徹底的に防止した。
泣き喚いて床をのたうち回るぼくを抱き締め続けることは、きっと容易ではなかったはずだ。辛かっただろうししんどかっただろうし、ひょっとするとぼくの見ていないところで泣いたこともあったのかもしれない。そしてぼくのケアを引き受けざるを得ない状況に彼を置いてしまったことの罪悪感で、ぼく自身もまた病んでいった。
そんな負のスパイラルからどうやって抜け出したのか、明確にはわからない。ただ少しずつ、着実にそのなかでぼくは癒えていった。意味も理由もなくグズグズ泣き出す真夜中も、癇癪(かんしゃく)を起こして泣きわめくことも、彼への暴言も、徐々に徐々に減っていった。
カウンセリングに根気強く通い、彼と対話を重ね、結婚してから約1年半が経ったころ。ついに主治医から、「もう寛解(かんかい)だね、おめでとう」という言葉をもらうことができた。