一昨年、
でもそれを、父はまだ知らない。あの男はいまもなお、ぼくを自分の体の一部だと勘違いしたままなのだ。滑稽なことに。
ぼくの性の在り方は「ノンバイナリー」に該当する。男女どちらの枠組みにも、ぼくの心は当てはまらない。男女のエッセンスがそれぞれ1、2滴ずつ入っている、限りなく無性に近い両性。それが、「ぼく」だった。
「パパ、あんたが改名して胸も取るって聞いて、悲しがってたで。せめて親からもらった大事な体に傷付けるようなことはやめてくれんかって、泣きながら言ってたんやで」
電話越しに自らも涙声でそう訴えてくる母に対して、しかしながらぼくの頭に思い浮かんだのは「知るかよ」の4文字それのみだった。
※本記事では子どもへ向けた心体への虐待表現があります。ご注意ください。
- 第1回:「死刑やからな」ぼくの首に食い込む、父の太い指。思い出される教育虐待の記憶
- 第2回:虐待をする父からの死刑執行宣告。生き延びたかったぼくの決死の逃避行
- 第3回:“その場から逃げて終わり”ではない。経験者が語る、壮絶な「教育虐待」の現実
- 第4回:愛する人との出会いと、戸籍からの離脱。ぼくが「教育虐待」から抜け出した方法
親からもらった、大事な体?
幼少期からの暴力をともなう苛烈で執拗な「教育虐待」、その地獄からなんとか這い出したぼくは、シス男性との法律婚によって父親の戸籍から正式に抜けた。
あの父と、「家族」ではなくなった。似たような境遇に置かれているだれかの、生き延びるための手がかりになりたい。その一心で、現在はライターとして自身の被虐待体験を綴っている。
30歳を目前に控えたぼくは、「女性として生きること」そのものにもう耐えられなくなっていた。この世に産み落とされたその瞬間から自分の身体に馴染めず、可愛らしく女性らしい響きの本名をいつだって憎悪していた。
「男性」になりたい、と思ったことは一度もない。ただぼくは生まれたときから、「女性」ではなかった。自分が何者かもわからず混乱の渦の10代をくぐり抜け、大学でジェンダー論を専攻したぼくは、そこで初めて「ノンバイナリー」という言葉に出会う。
「男女二言論の枠組みに捉われない性別の在り方」。講義で配られたレジュメには、そんな説明が記載されていた。
これだ、とすぐに思った。その瞬間に、走馬灯のようにこれまで感じてきた心と体のズレが脳内に駆け巡った。
初潮が来たあの日、ぼくはまだ10歳で、保健体育でそれについて教わるずっと前だった。でもぼくは、読んだ本で知っていた。身体が「女性」になること、「産む性」に変わること。
てっきり父も母も、いや母だけは、うっすら勘付いていると思っていたのだ。ぼくが純然たる「女の子」ではないのだろうと。けれども驚くべきことに、彼らはこれまで一度たりとも疑いすらしなかったらしい。後ほどそう聞いて、心底がっかりしてしまった。
ぼくがいったい何を好きで、何を嫌いで、どう考え、どう感じ、どう思うのか。この人たちはそんなことには1ミリも興味がなくて、ぼくの成績ただそれのみしか注視してこなかったのだ。
結局のところ、彼らはぼくの本質を見ようともしていなかった。それでもなお、自らを親だと主張するのか。長年性別違和と闘い続け、
「その『親からもらった大事な体』をサンドバッグみたいに殴って蹴ってたのは、親であるあなたたちだけどね」
嫌味はあらかじめ用意してたみたいに、口からとうとうと流れ出た。
「自分たちが産み出したものだから、自分たちだけはいくらでも傷つけていいって?それは正当な権利だって?そう言いたいわけ?」
母親は電話口で幼子のように慟哭(どうこく)し始めた。それが耳障りで、ぼくはぶちりと通話を切った。
iPhoneをそのへんに放り投げ、ソファーベットにぼすんと倒れ込む。呼吸が浅くなり、ひゅうひゅうと喉が鳴る。苛立ちと哀しさと虚しさが、いっぺんに身体を襲う。
これはまずいなと思ったので、重い身体を引きずってキッチンに向かい、どうにかこうにか頓服薬を水で流し込んだ。久方ぶりにそれに頼った悔しさで、ぼくは思わず舌打ちをした。
邪魔をしないでほしい。ぼくはもう、あなたたちの手元を離れ、愛する人と平穏な生活を手に入れたのだ。ぼくに二度と関わることなく、知らないところで生きて、そして死んでほしい。
…そこまで思って胸に広がるのは、いつだってえも言われぬ罪悪感だ。ぼくは母を、父ほどに憎みきれてはいない。
夫が可愛いねと褒めてくれるもこもこした素材の部屋着の袖を、肘のあたりまでまくり上げる。そこにひっそりと息づく、赤眼の猫。そのしなやかな身体のラインを、たしかめるように指でなぞる。
「親からもらった大事な体」ね。そんなものはすでに、もうこの世にはない。タトゥーを入れたその瞬間から、
それを知ったら、母は悲しいと咽び泣くのだろうか。父は激昂し、拳を振り上げるのだろうか。
馬鹿みたいだ。あんなに「殺すぞ」「死刑だ」と呪詛(じゅそ)を吐いていたくせに、どのツラ下げて父親風を吹かそうというのだろう。そして律儀に改名と胸オペの報告をしたぼくは、それ以上に馬鹿だった。