結婚前夜、父との「茶番」
結婚前夜も、そういえば同じようなことを言っていた。
実家から新居へ引っ越す前日の夜、どうにも寝付けずに段ボールで埋め尽くされた自室のベッドに寝っ転がり、ヘッセの『車輪の下』を読んでいた。『車輪の下』を読むのはおよそ10年ぶりだったが、どうしてかその夜、無性に読み返したくなったのだ。
すると深夜3時ごろ、ぼくの部屋の電気がついているのを見た父が、扉をノックしてきた。
「ちょっとええか」と問われた途端、胃の底から酸っぱいものが込み上げてきた。しかしここでもたつくと、機嫌を損ねたあの男は嵐のように荒れ狂う。だからすぐに短く返事をして、『車輪の下』の文庫本を閉じた。
父の書斎に連れていかれ、応接セットの革張りのソファに座れと促される。浅く腰掛けると、天井まである本棚の脇に隠すように立てかけられた木刀が視界に入った。
何度も何度も、執拗に、それで肉を打たれたこと。フラッシュバックで目眩と吐き気を催しながらも、逃げることはできない。
この男に「そこにいろ」と命じられれば…いや、この男が目の前に立っただけで、ぼくの体はすくんでしまうのだ。
しばらく黙って座っていると、やがて鼻を啜る音が聞こえた。不審に思って顔を上げると、なんと父は顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。
「おまえがいい人と結婚が決まって、本当によかった。父ちゃんは厳しかったかもしれんけど、おまえが幸せになってくれて安心した」
…なに言ってんだ、こいつ。
ぼくは阿呆のようにぽかんと口を開いたまま、ティッシュで顔を拭う父を見つめる。体の芯から急速に熱が奪われ、冷たくなっていくのがわかった。
「厳しかった」?
よもやこの男は、成績が気に食わないというただそれのみの理由で容赦なく木刀で我が子を打つあの行為を、「しつけ」と本気で信じ込んでいたのか。それだけでなく、「娘を嫁に出す父親」として自己陶酔しているというのか。
なにこの茶番。これ、ぼく、付き合わなきゃいけねえのかな。
ぼんやりそんなことを考えていると、「それだけや、もうええ」と満足した父親に解放された。
父の書斎を出ると、ぼくは台所に向かってジョニー・ウォーカーをグラスに2センチばかり注ぎ、それを煽った。そしてトイレで胃の中のものをすべて吐き、汚れた寝巻を洗面台で洗い、着替え、のそのそとベッドに潜り込む。
眠気はついに到来の気配を失い、それでもぼくは布団をかぶって目を瞑った。まぶたの裏に、『車輪の下』の主人公ハンス・ギーベンラートの顔が浮かぶ。
神童ハンスは父の期待に応えようと必死に勉学に励むが、次第に心を削られてついには神学校を退学する。見習い工としてやり直そうとするも、最後には川で溺れて死んでしまう。彼の姿に、どうして自分を重ねずにいられよう。