カミングアウトしないという選択
同時に、カミングアウトはリスクを負う可能性があることも忘れてはなりません。
LGBTQが浸透しない環境においては、差別や偏見の目を向ける人が存在したり、アウティング(本人の了承を得ずに、周りにセクシュアリティなどを暴露されてしまうこと)やハラスメントが懸念される場合もあります。
筆者は、フリーランスライターとして複数の職場環境がありますが、すべての職場で自分のセクシュアリティについて伝えています。
ですが、私がカミングアウトできたのは、クィアについての情報発信が求められていたり、メディア自体がインクルーシブな視点から発信していることを知っているからであり、幸運なことに理解のある人たちと働けているからです。
逆に、家族や親戚のなかでは、受け入れてくれるかわからない人もいるため、カミングアウトしていない人もいます。
このように環境や関わる人によって、ある種違う自分として接することは、楽な場合もあります。
職場ではゲイであることを隠しているが、仕事が終わったら二丁目でゲイの友人と遊んでいる会社員の人たちもいるわけで、環境に応じて違う自分として過ごすことが悪というわけではないのです。
「カミングアウトした人はハッピーで、クローゼット状態の人はかわいそう」と二極に捉えられがちですが、カミングアウトにより個々の幸せの尺度を図ることは、果たして本当の幸せなのでしょうか。
そうではなく、その人の幸福をもとに個人の選択があるのだと思います。そして、それらの選択を尊重すべきなのです。
職場での対話
職場でカミングアウトしない当事者のなかには、「カミングアウトしたいけどできない」という人が多くいます。
その理由として、カミングアウトしにくい雰囲気、アウティングの懸念、セクシュアルマイノリティを含んだ取り組みがないなど、当事者を心理的、環境的に守る体制が整っていないことが挙げられます。
いままで、結婚や恋愛は異性間のものと教えられてきたなかで、根強いジェンダー観を拭うことは難しいことかもしれません。
ですが、男女という枠だけでは説明できない性(さが)も存在し、その性をもつ人たちも他者と同様、同じ空間で過ごしています。
そして、それらを伝える義務は当事者にあるのではなく、周りが知ろうという姿勢を主体的に向けることが大事だと思うのです。
もし、自分が自分としているだけで否定されるようなことがあったら…と考えると、いかに理不尽であるかが感じられます。
だからこそ自分とは違う人がいることを前提に、お互いに対話することが求められるのです。
対話を実現するには、会社として制度面を見直すことはもちろん、職場にいる個人としてできることがたくさんあります。
いままでに構築された従来の形を信じる人たちは、LGBTQという存在を知ることで驚くこともあるでしょう。ですが、他者を集団的属性で認識することは、その人を既存の「何か」に当てはめることとなります。
自分のなかにある情報や価値観というのは限られたものであり、他者がもつものと重なったり異なったりするのは当然のこと。自分のなかだけにあるものを過信するのではなく、相手の違いを見つけ、それを自分自身のなかにインプットしていくことで、また新しい価値観を得ていきたいものです。