フリーダは裕福な家庭に生まれ、両親や姉妹、乳母らとともに暮らしていました。学校の成績も優秀で、写真家である父親の影響を受け、芸術への興味を高めていきます。
しかし彼女が18歳のとき、通学中のバスの事故に巻き込まれ、3か月間ベッドの上で寝たきりに。身体の痛みと退屈を紛らわせるため、本格的に絵を描くようになったと言われています。
フリーダが絵を描いていたアトリエです。キャンバスの前に、彼女の車いすが置かれています。事故の後遺症で、フリーダは子どもを産むことが叶わず、亡くなるまで背中や足の痛みに悩まされ続けました。
博物館では、フリーダの絵のほか、ディエゴ・リベラの写真や作品も飾られています。事故から3年後、フリーダはすでに有名画家だったディエゴに作品を見せ、彼はフリーダの才能に衝撃を受けました。21歳年上のディエゴとフリーダは、これをきっかけに翌年結婚します。
ただ、すでに2度の離婚歴があった浮気性のディエゴとの結婚を、両親は歓迎しませんでした。
アメリカでの仕事が多かったディエゴとともに、フリーダも一時アメリカで生活。その間に、ディエゴとの子どもを2度も流産します。この悲しい出来事は、のちのフリーダの作品に深く影響しました。
青い家には、何度も手術と療養をくり返したフリーダが使った、2つのベッドが展示されています。
1つは昼用、もう1つは夜に眠る用でした。
こちらのベッドの上には、寝ると顔が見える位置に鏡があります。もともとは、入院中の退屈を紛らわすため、母親が病院のベッドに鏡を取り付けたそうです。1日の大半を自分と向き合ううち、フリーダは多くの自画像を描くようになりました。
1933年、ディエゴとフリーダはアメリカからメキシコに戻ります。ディエゴの浮気癖はおさまらず、ついにはフリーダの妹と関係を持つまでに。ショックを受けたフリーダはディエゴと別居し、自身も芸術家のイサム・ノグチや、メキシコに亡命していたロシアの革命家、トロツキーらと関係を持ちます。
やがてフリーダの作品が認められ活躍するにつれ、ディエゴとの溝はさらに深まり、ふたりは1939年に離婚しました。その年に描かれた「二人のフリーダ」は、彼女の最高傑作の1つとして、メキシコ近代美術館におさめられています。
離婚後、フリーダは作品制作に没頭しました。経済的な自立を果たした彼女は、翌1940年、ディエゴに再婚の提案をします。そして2人は、フリーダが亡くなるまで、青い家でともに生活しました。