愛情の皮を被った束縛
そもそも情緒的に未成熟な親は、子どもを親に依存させることで「自己の尊厳」を維持しようとします。なので、子どもを情緒的に成長させるのではなく、むしろ情緒的に未成熟になるように介入しては成長を潰しにかかるのです。
悩ましいことに、こうした介入は「あなたのために…」という愛情の皮を被った罪悪感や劣等感、無能感の押し売り(刷り込み)を伴って行われることがとても多いようです。
こうした介入をされるたびに、子どもの自尊心は傷つき、削られていき、結果として自立心を奪い取られてしまいます。
僕自身も小さいころから「親に口答えするな」「先生には口答えするな」と耳にタコができるくらいいわれてきました。
その当時は「体罰が当たり前」「先輩や目上の人には絶対服従」みたいなのが暗黙のルールの時代だったこともあって、社会に出てから苦労しないようにと、よかれと思って親心で自らが子どもに厳しく接するという側面もあったことでしょう。
このとき、「子どもの将来のために」という愛情を主たる動機として子どもに厳しく接したなら、きっと子どもは厳しさの中にも愛情や安全を感じ取ることができると思います。「人は相手の無意識に反応」しますからね。
ですが、「子どもの将来のため」といいつつ、実は個人的な欲求不満解消(自尊心を満たしたいなど)の捌け口にするために子どもに厳しく接する親もいます。
その場合、子どもは親への恐怖心はもちろんですが、それ以外に、大人への恐怖心、社会への恐怖心、社会への不信感、さらには自分自身に対する無力感、無能感、欠落感、不信感、劣等感、罪悪感なども強烈に刷り込まれます。
これはかなり深い傷として心に刻まれてしまい、この傷の後遺症的な影響は大人になっても現れてしまうのです。
「自分が悪いせいだ」という思い込み
親や社会に対する恐怖心や不信感を刷り込まれた子どもは、「敵だらけの社会から、弱い私のことを守ってくれている」「厳しくすることで私のことを強くしようとしている」などと、自分で自分を納得させる以外に親の理不尽な介入や厳しさを理解する術がありません。
なので、無慈悲で卑劣な言葉でなじられたり、暴力を振るわれたりするなど理不尽な行為に対しても、全知全能の神である親がすることだから、「弱い自分が悪いんだ」「親の期待に応えられない自分が悪いんだ」などと、「自分に何らかの落ち度、非があるせいだ」思うことで自分を納得させるようになります。
前提に「親は全知全能の神である」というのがあるので、いくら「自分は間違っていない」「自分は悪くない」と思っていても、それだけでは自分を納得させることができないのです。
こんなふうに、たとえ親の身勝手な都合だけで子どもを振り回していたとしても、幼い子供は、「親はこの敵だらけの社会から自分のことを守ってくれる存在だ」という前提で物事を考えているので、「自分の首を苦しくなるまで締め上げてきた父親はおかしいのではないか?」と思ったりはしないのです。
自分が親から受けた意味不明で理不尽な行為に対して、たとえ「親はおかしいのではないか?」と頭ではうっすら感じていたとしても、それ以上に「首を締められる自分の方に落ち度があるからだ」などと思ってしまうのです。
こうして悲劇はどんどん進化していきます…。