そもそも、土地柄が合わないのか?
そもそもで、僕は地元と肌が合わないのかもしれないと思うところもあるのです。僕の地元は比較的「田舎」とよばれる地域で、人と人とのつながりが都会よりも濃く残っています。
家族が所有する車種などから「この前の休日、○○にいなかった?」なんて聞かれることはしょっちゅうで、僕が卒業以降連絡を取り合っていないような間柄の同級生の近況を僕の家族が把握していて、それが僕に伝わってくるなんてこともあります。
悪気のない、地元では当たり前に行われる個人の情報を周囲の人々が把握し、勝手に共有される。それが僕には窮屈に感じられました。
そんな地元で僕の両親や親族は人並みに顔も広く、僕はいつでも「椎名さんちのトキちゃん」でした。「椎名さんちの」が「○○さんの孫」や「○○さんの娘」になる程度の変化はあっても、本質は変わりません。
繰り返しになりますが、僕は地元ではセクシュアルマイノリティであることを隠していて、言い換えれば自分を偽っていた部分がありました。
それなのに「椎名さんちのトキちゃん」と周囲によばれることは、自分が周囲に自分を偽っている実感を強めるばかりで、けして居心地のいいものではありません。
この居心地の悪さの正体は反抗や嫌悪というより、自分がセクシュアルマイノリティで「ほかの家の子とは違ってしまった」という家族に対する後ろめたさでした。
そして人と人とのつながりの強さは、「どこで誰が見ているかわからない」という考えにも繋がります。周囲の目を恐れて、地元で彼女と手を繋ぐこともできませんでした。
その街に彼女と戻るとしても、きっと僕は周囲の人の目を気にしてしまうし、彼女との関係が友人同士ではないことを隠しきる自信はありません。そこに「椎名さんちのトキちゃん」が加わると思うと気が重くなります。
人と人の繋がりの強さは、本来ならば心強さやその土地への愛情を深める理由にもなるでしょう。どんな物事にも言えることですが、大勢にとって幸せなことが、必ずしも自分にとって幸せなこととは限りません。僕にとっては強すぎる地元の人と人とのつながりが、それにあたるというだけのことです。
中学生くらいのころには「椎名さんちのトキちゃん」を窮屈に思っていて、絶対に高校を卒業したら親元を離れて暮らすと心に決めていました。