地元を愛せることは素晴らしいけれどマストではない
新型コロナウイルス流行の直前の正月、帰省していた際にふと感じたことがあります。気づけば僕が地元を離れて、干支がまるっと一周しようとしていました。
これまでの年に2回の帰省のたびに、通い慣れたお店が閉店して全く知らないお店になっていたりということが何度もあり、いつのまにか道すらも新しくなっていたり。よく知っていたはずの生まれた街が少しずつ様変わりをしていきました。
帰省1回ごとの変化は小さくても、干支一周分を振り返ってみると、積み重なった変化は思っていた以上に大きかった。その変化の幅の広さに、「ああ、もうここは僕のいたころの地元ではないんだな」と自分と地元の距離のちょうどよいいところを見つけた気がしたのです。
自分がいたころと違っているのなら、特別に愛さなければと思わなくてもいいのではないかと。あくまで僕は「そこに暮らす親しい人たち」が好きなのであって、地元は好きになれなくてもいいかなとこの時やっと思うことができました。
大切な人たちは人や家族単位で好きです。しかしもっと大きな「地元」というくくりは、愛せなくてもいい。
「地元が好き」なことはとても素晴らしいことです。そう感じているかたは、誇っていいことだと思います。愛せる地元に生まれ育ったことは幸運で、正直言うと羨ましいです。しかしそれは絶対にマストではない。
「地元が好き」なことは素晴らしいけれど、それが自分の人生の素晴らしさに直結するものではなく、そうでなくても人生を素晴らしく、よりよくすることは十分に可能なのです。
僕は僕なりの地元との距離感があって、少なくともいまはその距離感でいることが、僕の人生の素晴らしさにつながっていると思います。
いまは世情として帰省が難しい状況ですが、以前の僕ならばむしろこの帰省できない状況にかえってホッとしているでしょう。感染拡大防止は、帰省しなくていい大義名分だからです。
もし、この記事を読んでくださっているあなたが、以前の僕のように帰省にポジティブな気持ちを抱けないでいるとしても、無理に好きになることはないと思います。あなたの周囲が何と言っていても、少なくとも僕はそう思います。
地元と自分の距離感にしっくりきたいまは、地元に暮らす親しい人たちに会いたい気持ちはあります。電話やZoomではなく、面と向かって話したいこともある。しかし変わらず「地元」は好きになれないのです。それでもきっと、僕の人生は素晴らしい。
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