最後の希望と、絶望の瞬間
このころにはたぶん、とっくにうつ病を発症していたのだと思う。朝方まで眠れない日々が続き、しょっちゅうガラケーで自殺の方法を検索していた。いつでも死ねると安心することで、ひるがえってなんとか生きながらえていたのだろう。
努力したからといって、合格する確証はない。そのころのぼくの成績は酷いもので、模試の早稲田大学法学部の判定もAには遠く及ばず、合否発表が死刑執行日になるのは目に見えていた。
自分自身で手を下すか、それとも父にやられるか。でもその二択のどちらかを選ばなきゃいけなくなる前に、もしかしたら。もしかしたらニュースでよく聞くあの場所ならば、ぼくを助けてくれるかもしれない。
そう思って、早稲田大学の受験まで1カ月を切った高校3年生の真冬のあの日、児童相談所を訪れた。
「助けてください、父に暴力を振るわれているんです。早稲田に合格しなかったら、殺されちゃうんです」と。
けれどもぼくを個室に通した職員のおじさんの反応は、期待とはかけ離れたものだった。
「見る限りあなたは健康そうだし、服もきれいだし、虐待を受けているようには見えないよ。受験のストレスが辛いのはわかるけど、あなたのためを思って早稲田大学をすすめてくれてるんでしょう。いいお父さんじゃない」
おじさんの背後の窓から西日が部屋に差し込んでいたから、逆光で表情はよくわからなかった。ぽかんと間抜け面を晒したままのぼくに、おじさんはさらに畳み掛けた。
「それにね、子どもひとり大学に行かせるのって、簡単じゃないんだよ。保護される子たちはね、大学に行く選択肢すらない子がほとんどなんだから。18歳を過ぎたら嫌でも独り立ちしなきゃいけない子ばっかりだよ。あなたは恵まれているんだから、お父さんの言うことをよく聞いて、お勉強を頑張りなさい」
その後どうやって家路についたのか、憶えていない。思い出せるのは西日で顔が陰ったおじさんのシルエットと、真冬の海の真ん中に放り出されたような絶望感だけ。
ぼくはこの児童相談所や職員のおじさんを、糾弾する気はない。そういう意図でこの文章を書いたわけじゃないということだけは、断らせておいてほしい。
このとき父親の職業と名前を紙に書かされたんだけど、おそらくインターネットで親父の名前を検索して、事務所を特定したのだろう。真相はわからないが、児童相談所としても弁護士と敵対したくはないという気持ちは、正直わからなくはない。
ただ、それでもここでぼくがこの体験をつづるのは、知ってほしいからだ。
家の数だけ「虐待」の形がある
「虐待」と聞いてみんなが連想するのは、たいていは貧困家庭だろう。衣服が汚れていて、やつれた、あざだらけの子どもだろう。でも虐待というものは、家の数だけ形がある。
そもそも虐待は家庭内という密室で行われる暴力だから、外からは非常に見えにくい。ましてやぼくのように親の社会的地位が高く、裕福な家庭であるのならば、なおさら問題は見過ごされやすいのだ。
一見何の変哲もない、問題のなさそうな家庭においてだって、虐待は起こり得る。身体にアザがなくとも、ある程度の知識がある親ならば、巧妙に「残らない程度」の暴行に留めるのだ。
ぼくの身体にいまも残っているのは、親父がおもしろがって潰したみずぼうそうの跡くらい。痛みで泣き叫ぶぼくをあの親父は楽しそうに笑って見下ろしていたけれど、体に残った傷跡はその程度のものだ。
しかし父がぼくに長年加え続けたものは、間違いなく「虐待」である。残虐で熾烈で過激な、まごうことなき純粋な、ぼくの尊厳を叩き潰す暴行だった。
ぼくは運よくこうして生き延びて、文章を書く仕事にもありつけている。愛するパートナーと暮らして、それなりに幸せな日々を送っている。でも、ふとしたときにフラッシュバックに襲われるのだ。
叩き潰された尊厳を取り戻すのに、いまも文字通り血を吐いてもがいている。どんなに「いま」が幸せでも、愛すべき人が隣にいても、理解者である友人を持っても、その事実は変わらない。
「裕福だから」「親がまともそうな職業に就いているから」「それっぽくないから」
そんな理由で突っぱねないでほしかった。
「金持ちなだけまだマシ」「大学に行かせてもらえただけありがたく思わなきゃ」「同じ被虐待児でも、もっと酷い目に遭っている子はたくさんいる」
そんな言葉を浴びせられたのは、一度や二度じゃない。こうして発信するなかでも、無理解に満ちた罵詈雑言は嫌というほど投げつけられた。
ほかの“誰か”と比べてマシならば、捨てていい命などあるのだろうか。親がまともそうな職業に就いていることが、どうして虐待をしていない証左になりうるのか。
いまぼくがこうして生き延びたのだって、偶然が重なった結果に過ぎない。死ぬチャンスは、いくらでもあったのだ。
だからこそ、幸運にも生き延びた「裕福な家庭出身の教育虐待サバイバー」として、この実体験を伝えていきたい。
ステレオタイプに当てはまらないからといって、必死に上げた声を聞き流さないでほしい。あの日児童相談所で突っぱねられたぼくと同じ気持ちなんて、誰ひとり味わう必要はない。
どうかできるだけ多くの人に、知ってほしい。虐待の現実を、この複雑性を、多様性を。たったそれだけで救われる命や心は、限りなく増えるのだから。
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