昭和、平成にキレる
「本当に、申し訳ございませんでした」
梨沙は、深々と頭を下げた。リモートではなく、直接クライアントと会うのは数週間ぶりだ。かちっとしたスーツを着るのもやや久しぶりで、少しだけ着心地に違和感がある。
ちらっと横を見ると、後藤も同じように頭を下げている。
梨沙は、以前梨沙が担当していて後藤に引き継いだクライアントの「富田工場」に来ていた。古い町工場だがそこそこの規模で、昔から定期的に広告を出稿してくれている。
金属製品の製造をしていて一定のニーズはあるのだが、若い人がなかなかおらず、従業員の高齢化が悩みだと以前から聞いていた。広告を出稿しても応募があまり来ないこともあったのだが、ここ最近は、少しずつ若い人も入社してきつつあった。
今回は、繁忙期の短期アルバイトの募集広告を出稿する予定だった。ネットよりも冊子のほうが応募が来やすいということで、駅やコンビニなどに設置される求人情報誌の秋の特大号に広告を出すはずだったのだ。
しかし、後藤がその手続きを失念し、気づいたときにはすでに印刷が始まっていて、特大号への広告出稿ができなくなってしまったのだった。梨沙も細かくチェックしておけばと悔やんだが、ルーティンワークのひとつだし、こと細かに確認するのもどうかと思ったのだった。
お詫びとして無料でネットに広告を出稿し、ようやく応募が来始めたようだが、本来の予定よりもまだ大幅に人が足りず、かなり迷惑をかけてしまった。
富田社長は口数が少ないほうだが、今回は明らかに怒っているのが雰囲気でわかった。
「…別に、うちみたいな古い工場なんか大口の顧客じゃないんだろうけどさ。でも、頼んだことくらいはやってもらわないと。なんのためにおたくにお願いしてるのか、わかんないよ」
「おっしゃる通りです、本当に申し訳ございません」
梨沙の言葉に、後藤も「申し訳ございません」と続いた。
もう、契約切られるな。梨沙は、内心そう思った。求人広告を扱う代理店は、ほかにもたくさんある。料金が安いところもあれば、マメなところも、提案力が強いところも。「うちの会社じゃなきゃダメな理由」なんてないからこそ、うちを選んでもらえるようにしないといけないのだ。
帰り道、梨沙は後藤の少し前を無言で歩いていた。まずは再発防止につとめつつ、謝罪は継続しながら、新しいクライアントも探す必要がある。
もちろんミスは誰にでもあるけれど、今回のことは、後藤が明らかに手を抜いていたからこそ起きたことだと感じる。
「…あの」駅に近づいたとき、ずっと無言だった後藤が話しかけてきた。
「何?」正直、後藤の顔を見ることすらうんざりで、でもそれを悟られまいと、梨沙は目を合わせないように振り返った。
「…私、営業担当やめたいです。もともと得意じゃないし、今回みたいなことがあると、効率も悪いと思うので…」後藤は、何を考えているかわからない無表情で、そうつぶやいた。
そのとき、梨沙のなかで何かが切れた。
「あのさ、それって効率とかじゃなくて、自分がやりたくないことを避けようとしてるだけだよね?そもそも、まずは『迷惑かけてすみません』じゃないの?どうしたらまたこういうことが起きないか、考えるのが先なんじゃないの?」
梨沙はまくしたてた。別に、これでパワハラだとか言われたっていい。もしこれでパワハラ扱いで処分されるなら、上等だ。
「…」街の喧騒のなか、梨沙の目には、後藤の姿だけが浮かび上がって見える。黒々としたまっすぐな髪に、カバーする必要のない澄んだ肌。マスカラだけを塗ったくっきりとした目元。若いな、と思う。この子は自分の半分くらいしか、生きてきていないんだよな、とも。
「別に、後藤さんが今後どういう道に進んだってもちろん自由だよ。でもいまは、得意だとか苦手とか考える段階じゃなくて、目の前の仕事に向き合うことが先でしょう。それもしたくないなら、私からはもう、教えられることはないよ」
後藤は、まだ黙り込んでいる。
「後藤さんは直帰するんだよね。私は、会社に戻って作業があるから。お疲れさま」
梨沙は後藤のほうを振り向かないまま、地下鉄の階段を降りていった。