私を助けた祖母の言葉
「どの自分が本当のオリジナル?」
宇多田ヒカルの新曲にはそんな歌詞があった。それを聴いた私は中学時代の自分と重なった。
いじめが起きる環境でもなく、誰かに責められるわけでもない。そんななかにいても自分の声が聞こえなくなった。
家にいるときと仲のいい友達といるとき、先生といるときと先輩といるとき。すべて違う自分で、そしてすべて自分ではない気がしていた堪れなかった。
「自分らしく生きる」その自分がわからなくなってしまったのだ。こんなに周りに人がいるのに。家族にも友人にも嘘をついている気がして涙が出た。
その悩みを何気なく話した相手がいた。それは祖母だった。週末、ふたりでテレビを観ているときに、できるだけ明るく心配をかけまいと気丈に振る舞いながら話した。すると彼女はこう言った。
「どの自分も全部自分なんじゃない。お父さんやお母さんの前にいるあなたも、友達の前にいるあなたも。いまおばあちゃんと話すあなたも全部あなたであることに変わりはないよ」
鳩尾に突っかかる何かがすっとお腹の辺りに落ちた気がした。それと同時に鼻の奥がツンとして唾を飲み込んだ。
「自分らしくしようとした瞬間、それはあなたが成れる自分の可能性を0にしているんだよ。人間は誰かがいるから自分ができる。他者をすべて受け入れているとき、本当の自分らしさが生まれるんだよ」
彼女はそう続けて私に笑いかけ、お茶を淹れにキッチンへと歩いていった。
どの自分もすべて自分でしかないのだ
自分らしさとは何か。大人になり仕事をするなかで自分自身や自分の生き方が分からなくなったとき、中学時代のこのことを思い出す。
「他者を受け入れたとき、本当の自分らしさが生まれる」
私は他者を受け入れたことでオリジナルの自分がなくなったと感じたが、それは全く逆のことだった。
他者を受け入れることで、そして他者を感じることで知らなかった自分に気づく。それが積み重なって本当の自分らしさが生まれる。祖母はそれを教えてくれたのだ。
私らしく生きようと自分を決めつけるほど、私は自分らしさを失っていく。そう思うと朝起きて誰かと関わって仕事をして帰って寝る、そうただ生きているだけで私は私らしく生きていけるのだと思える。
「自分とはどんな人間でほかとはどう違うのか」「私らしいとはなにか」苦しみながらこの問いと向き合い続けて生きている私たちだけれど、どの自分もすべて自分でしかないと認めて他者を受け入れて生きていれば、私たちはいつだって自分らしいのだ。
きょうも始発電車に揺られる。隣に座る酔っ払った女の子は私の肩にもたれかかった。私は新橋までのあと二駅この肩を貸そうと思う。きっとこれが私らしさなのだから。
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