こんにちは、椎名です。僕は身体の性が女性で、心の性を定めていないXジェンダーのセクシュアルマイノリティです。生まれ持った女性の身体に対して違和感はあるものの、胸や生殖器へのオペは受けていません。
セクシュアルマイノリティで身体に違和があっても、オペによって身体の性を心の性に合わせることを望むか、そしてなにを選択するかは当事者ひとりひとりで考え方が異なり、さまざまです。どの選択をするとしても、本人の望むものであれば自由。
今回は選択肢のひとつである、オペをしないことを決めた僕のケースについてお話します。
“女性”の身体への違和
客観的に見て、僕の身体はとても女性的です。身長もそう高くはなく、手足も小さい。胸は比較的大きいとされるサイズだと思います。なので少しでも胸を小さく見えるようにするために、胸を小さく見せる下着は手放せません。
第二次成長期をむかえたころは特に、「膨らんでいく胸が邪魔だなぁ」と思っていて、その不満を口にすれば「贅沢な悩み」だと言われてきました。
「あしたの朝、目が覚めたらなくなっていればいいのに」「胸を大きくしたい人と胸を交換できたらいいのに」と、いまでも考えることがあります。
普段レディース服よりもユニセックスやメンズファッションを好むので、胸があることで思い通りの見た目になりません。正直胸がないならないで、特に困ることも僕の場合思い当たりません。
しかし男性の身体になりたいと思っていたわけではなかったので、オペを受けたいかと言われると悩ましいところでした。
「あしたの朝、目が覚めたらなくなっていればいいのに」というのも、「宝くじで3億円あたらないかな」のようなあまり現実的でない夢のとして考えているところがあります。
違和があったのは、胸だけではありません。生理痛などの月経トラブルも歳を重ねる毎に増えていったため、「自分の体に無くていい余計な機能がある」と感じています。生理前のメンタルの不調や重い生理痛は煩わしい以外の何物でもありません。
これら身体の性への違和は、オペを受ければ解消されるでしょう。しかし僕の場合はそれを、「違和があることも踏まえて自分」と考えることにしたのです。
違和を受け入れる
僕は今後もオペを受けることを考えていません。医療的に必要に迫られた場合は、もちろん別として。その理由は大きく分けてふたつと、そのほかに細々付随するものとがあります。
ひとつ目は、僕が感じている違和に対する嫌悪感が、オペを受けることに感じていたハードルよりも低かったことです。
前述の通り、身体への違和があることはたしかで間違いありません。しかしオペを受けるには金銭的な負担、長期休暇が必要であること、家族への対応、オペに対する恐怖心の克服といくつかのハードルが存在していました。
どんなハードルがいくつあるかは、当事者全員に当てはまるわけではなく、もっと多くのハードルがあるかたもいるのであくまで僕の一例としてお考えください。
金銭的なものや休暇はやろうと思えば準備をすることができたと思うので、実際には家族とオペへの恐怖心がとりわけハードルが高いと感じていました。
円満な家庭ではなかったかもしれないけれど、感謝することができるくらいには両親に大切に育ててもらっていて、だからこそ身体を変えることに後ろめたさを感じたのです。
見た目でわかるオペであれば、両親だけでなく祖父母や叔父叔母といった親戚にも、僕がセクシュアルマイノリティだと話さなければなりません。
また、僕は10代で2度心臓にカテーテル治療を行っていて、開胸手術ではなく傷口も小さく済む治療の域ではあったものの、当時かなりのショックを受けていたことも大きいです。あのころ抱えていた漠然とした恐怖感が、オペと一緒に引き出されるのではないかと不安でもありました。
僕が感じたこれらのハードルについて考えたとき、このハードルを超えない程度の嫌悪感ならば、共存していこうと思ったのです。
「術後の身体を考えると30歳までにオペをした方がいい」とも耳にしていたので、ちょうど30代に差し掛かろうとしたころの決断でした。
オペを考えていない理由のふたつ目は、違和に対する嫌悪感が少しずつ減っていったことも要因のひとつです。
それは僕のパートナーである彼女が、繰り返し繰り返し僕の女性としての身体の造形を褒めて認めてくれていたことです。
最初はそれにも反発していましたが、自分の身体が愛する人から認められるというのはまんざらでもありません。僕の胸に顔を預けて眠る彼女の寝顔の安らかさにも、幾度となく幸せを感じてきました。
「あなたが(その身体を)嫌いでも、私は好き」。そうやって何度も言葉を重ね続けてくれたことで、嫌悪感と違和を感じることを別のものして区別できるようになり、嫌悪感自体も次第に薄くなっていきました。
決定的ではないもののこれらの理由に付随していることもお話しすると、僕はなぜか出先や電車などで急病人や困っている人に遭遇することが多いのです。
以前駅のホームで、若い女性がうずくまっているところを見かけ思わず駆け寄ると、女性を横目に過ぎ去る人の間から中年のサラリーマンの男性が同じように駆け寄ってきてくれました。
「大丈夫ですか?」と問いかけると女性は真っ青な顔で首を振り、うまく返答できない様子。それを見て「駅員さんを呼んで来ます」と僕が言うと、男性は「駅員は私が呼んでくるから、ここにいてほしい。女性が寄添った方が安心するだろうから」と言い、駅員のいる改札へ足早に向かっていきました。
正確に言えば心は女性ではないけれど、「女性の身体であるメリット」を初めて明確に感じた出来事でした。そのあと女性は駅で休ませてもらえることになったので僕と男性は離れることにしました。
彼女のおかげもあり違和はあってもそう大きなものではなく、愛する人にも認めてもらえて、誰かが困ったときに寄り添いやすいならば、僕の身体は女性でもいい。そう考えて選んだ選択でした。