まだまだオープンには生きられない社会
2015年に渋谷区がパートナーシップを実施してからこれまでのおよそ9年の間で、少しずつLGBTQ+当事者に対しての理解は進んできました。
メディアでの報道などにも「LGBT」「セクシュアルマイノリティ」という言葉を度々目にするようになり、企業や自治体でLGBTQ+に関する研修が実施されるなど、一個人としてだけではない取り組みも行われるようになりました。
そのおかげか、「そういう人もいるよね」「差別されない世の中であってほしい」と考えている人は増えてきてくれていると思います。
それでもまだ、筆者は当事者のひとりとして、いまの日本の社会は当事者にとってはまだまだ困難の多い社会だと感じています。
なかには「日本にLGBTQ+への差別はない」と仰るかたもときどきいらっしゃいます。
筆者は実際にLGBTQ+当事者であることをオープンにして行った転職活動の面接の最中に、面と向かって言われたことがあります。
その人から見た社会には差別がないように見えたとしても、本当に差別はないのでしょうか。
「差別」という強い言葉に抵抗があるのならば、当事者にとって生き難い、不便なことは本当にないのでしょうか。
土地柄とまでは言いませんが、筆者が生まれ育った地域では車のナンバーや車種をたよりに、「日曜日○○にいた?」なんて話になったり、ほとんど会ったことがない同級生の父親が抱える心疾患や、不倫の話が子どもの耳にも届いていて、いい噂も悪い噂も簡単に広まってしまうことに嫌悪感を抱えていました。
実家を離れ都市部で暮らしはじめてからも、成人式以降一度も連絡すらとっていない同級生の近況を、本人からではなく親や親戚から耳にすることが珍しくありません。
そういったことが背景にあり、学生時代は現在のパートナーである彼女と外で手を繋ぐことすらできませんでした。
離れて暮らしているので現在は昔ほどではないのかもしれませんが、当時の印象があまりに強いため、どうしても前述のように大切な人たちのことを案じてしまいます。
そのくらいには、いまの日本は当事者として顔を出して活動できるほど安心できる社会ではないと考えています。
LGBTQ+当事者は画面の向こうではなく、あなたの隣にもいる
冒頭でもお話しましたが、筆者は身体の性別が女性で、心の性別を定めていないXジェンダーで女性のパートナーと生活を共にしています。
仕事場でも彼女との結婚指輪を着けて働いていますが、職場全員にカムアウトをしているわけではありません。おそらくカムアウトをしていない相手には、男性と結婚した女性に見えていることでしょう。
過去にも、「俺の周りにはLGBTはいない」と隣に座っていた同寮に言われたことがあり、そのときも相手には筆者が当事者に見えていなかっただけ。
相手には当事者に見えていないだけで、当事者である筆者はたしかに存在し、同じ職場で一緒に働いています。
自分の周りにはいないだなんて、本当はすぐ隣に存在している当事者をいないものとしている人が少しでも減ることが、当事者が安心できる社会になっていく第一歩なのではないかと思います。
記事を読んでいる場所が電車ならば同じ車内に、自宅ならばご近所のどこかに、会社ならば社内や関連会社のどこかに、学校ならば同じ学内の生徒や先生のなかに筆者のようにカムアウトをしていないだけの当事者がきっと存在しています。
当事者の存在が見えないからと言ってあなたの隣にいないなんて、絶対に言い切れないのです。