女性の幸せな働き方を追求する起業家、内田琴美さん。リクルートを退職後、独立して5年。数々の困難を乗り越え、いまでは多くの女性から支持を集めています。
そんな内田さんの新しい挑戦が、ファンクラブの立ち上げです。
2回にわたってお送りするインタビューでは、内田さんの人生の転機や、ファンクラブで伝えたいこと、そして女性たちへのメッセージを伺いました。
起業家・内田琴美を形づくったもの
ー内田さんは、法人には経営者向けのコーチングと社員研修。個人にはジュエリー販売と女性向けのオンラインコミュニティという形でオンラインサロンを運営…と、さまざまなビジネスをされていますよね。今回新しく「MagOne」をスタートさせますが、どのような内容を予定していますか?
内田琴美さん(以下、内田):MagOneでは、「美しく在りながら自由に働こう」という大きなテーマのもと、「女性が美しく在ること」と「女性の働き方、キャリア」という2点にフォーカスしたコンテンツを展開する予定です。
ーここからは、内田さんについて深く知りたいと思います。まず、幼少期はどんなお子さんだったのですか?
内田:小さいころは、本当におとなしい子でした。友達といるよりも、1人が好きなタイプ。本が大好きで、小説の世界にどっぷりハマっていました。
『新潮文庫の100冊』という小冊子がありますよね。あれをもらってきて、片っ端からチェックして、気になる本にマルをし、「今度これを買ってもらおう」と計画を立てていました。
小学校でも給食を食べ終わった後、みんながワイワイお喋りしているのをよそに、机から本を出して読んでいました。なので、実はあまり友達は多くなかったです(笑)。
それと、3歳からクラシックバレエをやっていました。集中して鏡を見て、自分の手先や姿勢をチェックしたり…音楽に合わせて、自分の世界のなかで踊るということが好きで。
3歳からそんな感じだったので、自分のなかの綺麗なものとか、好きなものを見たり、自分の世界にどっぷりつかってることが好きな子だったと思います。
ー幼いころから自分の「美の世界」を極めていたのですね。その後、中高で女子校に入学されたとか。
内田:はい。先生がわたしたち生徒を「お嬢さま方」というような学校で。クラスメイトの言葉遣いも綺麗でした。そんな環境で育ったからか、言葉も音楽も、綺麗なものが好きですね。
ーそこから早稲田大学に入学されています。
内田:父と叔父が早稲田大学出身だったんです。だから逆に、「早稲田には絶対入りたくない!」と思っていて。なんだか「従順な女」みたいで嫌じゃないですか(笑)。それで頑張って勉強したんですけど、第一希望だった大学に落ちてしまい…結果的に早稲田に入りました。
わが家は父が会社を経営していて、母は専業主婦でした。両親が喧嘩するシーンは割とよく遭遇し、「離婚すればいいのに」なんて思うときもありましたね。
そんな影響もあり、「離婚したくても、お金がなかったらできない。女性が自分の人生を自由に生きるには、家庭も大事だけど経済力があった方がいいな」と中学生くらいから思うようになりました。
わたし自身の人生を考えたとき、将来的には家庭も持ちたいし、仕事をして稼ぎたいという気持ちがあったので、「大学は有名なところに入ろう」と考えて。
目指すとなったら、まっしぐら。「1日13時間勉強する」と決めて、高校2年生からは寝る時間以外ずっと勉強漬けの生活をしていました。
ーものすごい意思と行動力ですね。大学に入ってからはいかがでしたか?
内田:入学して1年目は遊びました(笑)。でも、あるときふと思ったんです。このままだと周りと一緒に就活して、どこかの企業に属して、無難な人生を歩んでいくんだろうなと。それで本当にいいのかと考えてしまったんです。
わたしのビジョンは、昔から「子どもを持つこと」と「仕事で稼ぐこと」でした。
子どもを持つのはまだ早いので、まずは稼ぐ力をつけようと、大学2年生のときに起業家育成のNPOにインターンシップとして参加。そこでは企業とインターンの学生をマッチングする事業に携わり、マッチングのための面談をはじめ、中間モニタリングやメンタリングのサポートまでしていました。そこからの大学生活は、ずっと仕事しかしてないです(笑)。
ー大学生ですでにキャリアを積まれていたのですね。仕事の方がおもしろくなってしまった?
内田:そうですね。仕事はおもしろかったです。大学の友達と楽しく遊ぶのもいいけれど、仕事を通して出会ういろんな大人たちのほうが当時の私には輝いて見えて。「こういう風に生きたい」と思う方にも出会いました。
ーその間に出産、育児しながらの仕事、さらに大学生と「3足のわらじ」を履いた状態だったわけですね。当時のことをお聞かせいただけますか?
内田:妊娠したのが、21歳のとき。子どもはもっと先だと思っていましたが、妊娠したということは「先に子どもを産め」ということかと(笑)。子どもがほしいなら早い方がいいと思い、すぐに産むと決めました。
とはいえ、キャリアは積みたい。同級生は就活して、先に社会人になっていく。一方わたしは子どもを持つことで制約ができ、就職さえ難しくなるのではと恐怖はありました。
けれど「そこに挑戦することで見えるものがあるのかもしれない、ならばやってみよう」と考えました。
でも、実際産んでみたら想像以上に大変!産後半年は大学も休んで、家で育児だけしていました。本当にそれが辛くて。その期間を経て、わたしは家にずっといることが向いてないのだと痛感し、改めて「仕事がしたい」と強く思いました。
その後、子どもは生後6カ月から保育園に預け、大学にも復帰。授業を受けて、インターンもして、 就活も入れて、夜は家で育児…という生活でした。
目が回るような忙しさでしたが、自分のなかでは家にずっといるより気持ちのバランスが取れていた気がします。
ーすさまじい時間管理能力ですね。さらに育児をしながらリクルートに入社されたのも驚きです。
内田:インターンの経験で、学生が仕事を通して成長していくプロセスを見て、働く経験が人生に与える影響力の大きさを実感しました。そして、人の働く時間が幸せであってほしいなと思うようになったんです。人材といえば「リクルート」なので、入社を希望しました。
当然受かるとは限らないので、数社エントリーしましたよ。わたしは周りの同級生と違って子どもがいるので、使える時間が限られています。エントリーシートを100社出すとかは物理的に無理。だから絞り込んで、リクルートの系列5社、あとはベンチャーを2社くらい受けました。結果、すべての会社から内定をいただきました。
ー快挙ですね。その理由は何だと思いますか?
内田:うーん…普通は、面接でなんとか面接官に気に入ってもらおうとすると思うんですけど、わたしの場合は子どもがいるからそんなことをやっている場合ではなくて。一次面接の段階で「子どもがいます」と伝え、採用の可能性があるか、ないならご縁がないと諦めようと見極める感じでやっていました。「子どもがいる環境でどう働けますか?」と交渉するようなイメージです。いまだから言えますが、当時はすごく不安でした。
ただ、いまの仕事でもそうですが、短期的にどうこうしようと思っていなかったことが勝因かもしれません。内定したところで、その先が楽しく働けなかったら意味がない。無理するくらいなら初めからご縁がない方がいいと思っていたので、変に媚びずにそのままの自分で語ることができたのかもしれません。いま思えば、それがよかったのかな。
この先長く付き合っていくなら、うまくいく相手じゃないと一緒にいても意味がない。これは仕事の人間関係も同じですね。
どん底からの再スタート
ーそこから独立されるまで、育児と仕事で頑張っていらっしゃったのですよね。
内田:私を含め「関わる人の働く時間が幸せであってほしい」という気持ちで、人材最大手のリクルートに入社したのですが、1年目から事業企画にアサインされました。何億という大きな数字を見て戦略を考え、予算達成のためにどう動いてもらうか考える仕事です。
やればやるほど、みんなが疲弊していくような気がして「私の仕事によって、誰が幸せになるんだろう?」というのがわからなくなりました。
「もっと幸せになってほしい」という気持ちだけでやっていたので、年収を上げるとかマネージャーになるとか、周りの人のように上にいくモチベーションがなくて。そうなると、会社員としてやるのは難しいのかもと考えるようになりましたね。最後はメンタルにきてしまい…「もうやりきった」と思って退職しました。
辞めてからは、今後はもう少し手触り感を持って、1人1人とじっくり向き合うことに立ち戻ろうと。学生時代のインターンのときのように、マンツーマンで女性のキャリア支援をしようと思い、コーチングから始めたのが5年前です。
ーいろいろあってのご決断だったのですね。再スタートを切ると決めたきっかけや経緯をお聞きしたいです。
内田:退職してすぐは、本当にどん底。会社員としてやれない自分に失望しました。学生時代からあれだけ勉強して早稲田に入って、子育ても頑張って、気合いで就活して、リクルートに入って。やりたい仕事ができて、夫もいて、子どももいて。全部あるのに何がそんなに物足りないんだろう、 なぜ幸せだと思えないんだろうと悩みました。
メンタルで休職中に傷病手当金は出ていましたが、給与の6割。その間も、家の家賃など出費はあるので、貯金は減っていく一方で。
働かなくてはと思いましたが、半年ほどブランクがあったので働く自信もない。転職したいと思える会社もない。就活では第一希望の会社に入れたけど、その会社すらマッチしないということは、もう私、社会復帰できないんじゃないかなと絶望していました。
そのタイミングで、私の未熟さもあって、夫との関係もうまくいかなくなってきました。それでも、弱っていく私を見て「働かなくていいよ」「俺が養うから」と言ってくれましたが、そうなるともう少し生活レベルを見直さなくてはいけないし、やっぱり私も働きたくて。
会社員が無理なら自分でやるしかないと思って考えた末、「人と話すことならできるかも」とコーチングで起業。同時にブログなどで発信も始めました。
しかし発信を始めてすぐ、身近な人に「仕事も中途半端なのに、そんな人が支援なんて」と猛反対されました。絶対成功しないし、読んでいて恥ずかしいからやめてと言われ、悔しくて号泣しながらブログを書く生活でした。
その後、離婚が決定。もう自分の力でやっていくしかないと、開業届けを出しました。本当は会社のなかで頑張れたらベストだったのかもしれませんが、自分には難しくて。かといって養ってもらうのも違う。自ずと「起業」の道が定まってきた感じです。
ーそこから5年。ここまでにいろいろな障壁があったのではないかと想像します。
内田:独立するまでは環境に守られ、いい人に恵まれてきたせいか性善説で生きてきました。ですが自分で独立してから、いろいろな人に出会い、事業で成功している方が必ずしも人格者ではないことを知りました。数々の苦い経験から、付き合う相手の本質をしっかり見極めないと、自分も傷つくし、自分のお客さまも傷つくと痛感しましたね。
わたし自身、「関わる人が幸せであってほしい」という気持ちで女性向けに事業を展開しています。ですが同じようなメッセージを発信していても、実際はそうではない人もいました。そこをきちんと見極めてお付き合いをすべきということは、この5年間で学ばせていただきました。
だからこそ、本当に自分がいいと思えるものだけを提案したいです。時間がかかってもいいから、きちんと積み上げていく生き方と売り方をしていくことが、長期的に発展する鍵なのかもしれないと思うようになりました。
- 取材・執筆:塩辛いか乃
- カメラ:榊原亮佑