私たちは、テレビを見ていても、会社にいっても、外の世界をいつも「判断」しています。
それが悪いわけではないけれど、ときには傷ついて誰かを裁く気持ちで身動きが取れなくなってしまうときも。あの人がどうしても許せない。そんな感情から、どうしたら抜け出せるのでしょうか。
自分のなかの「罪悪感」に目を向ける
ふと、誰かのことをひどく裁いている自分に気づく瞬間、ありませんか?
自分が裏切られたり、傷つけられたり、理不尽なことをされた相手のことだったり。また、自分が直接被害を受けてはいないけれど、どうしても許せない人だったり。異性や職場の人など、ある特定の人すべてを裁いているときもある。もちろん、批判されても仕方がないことや、誰が判断しても「間違っている」といわれる行動もあるでしょう。
しかし私たちの心は、ときどき他人に対する裁きや批判するきもちでいっぱいになってしまって、身動きが取れなくなってしまうときがあるのです。
頭の中は四六時中、相手に対する批判を延々に繰り返していたり、自分の正しさや正当性を証明することをひたすら考えていたり…自分が悪いわけではないのに、ずっと苦しくて、不自由で、文字通り「身動きが取れない」。
そんなときは、少し心が抵抗するかもしれないけれど、自分のなかにある「罪悪感」に目を向けてみましょう。
えっなぜ?私は悪くないのに!そう感じるかもしれません。しかし実は「罪悪感=悪いことしたから感じる」というわけでもないのです。いま、正しいとか悪いとか、許されざるその人のことも、少しだけ横に置いて、自分の心のなかに目を向けてみてください。
裁きたいのは、自分自身が持っているもの
私たちが、周りに見える人や行動を裁いているとき。それは、自分の中に抑圧している「何か」を攻撃したり、責めたりしているときなのです。
たとえば、パートナーが見せる私以外の異性に対する興味について批判しているとき。母親のお金の使い方について批判的でいるとき。同僚の仕事のやり方について判断しているとき。
私のなかに「いけないこと」「みっともないこと」「はしたない」「不潔」「自己中心的」…そんな「言葉」で抑圧している「何か」が存在していませんか?もしくは、自分が持っていると絶対に認めたくない「ニーズ」かもしれません。
注目されたい。認められたい。誉められたい。愛されたい…それは本当に持っていてはいけないきもちなのでしょうか。みっともない、はしたないことなのでしょうか。
昔、その気持ちを抱いている自分を、自分自身が強く裁いたのではないですか?いま1度、そのことについて、そのきもちについて、考えてみてほしいのです。