高校3年生の冬、大学受験を間近に控えていたぼくは、藁にもすがる思いで児童相談所の扉を叩いた。
どういう経緯で児童相談所に行ったのか、誰かにすすめられたのか、はたまた自力で調べたのか、もう覚えていない。ただ、必死だった。
このまま受験当日を迎えてしまったら、確実に父親に殺される。助けてほしかったのだ。もう、誰でもいいから救い出してほしかった。
- ※本記事では子どもへ向けた心体への虐待表現があります。ご注意ください。
柔らかな首に食い込む太い指
ぼくはいま、親から受けた虐待経験を踏まえて、その実情を知ってもらったり子どもたちの悩みによりそいたいと考え、ライターとして活動している。
そんなぼくが「教育虐待」という言葉を知ったのは、成人し親元を離れた後のことだ。その渦中にいたときは、自分が被虐待児に該当することすらわかっていなかった。
親という生き物は多かれ少なかれ子どもに暴力を振るう生き物なのだと、うちは“普通”の家庭よりはちょっぴり厳しいだけなのだと、そんなふうに捉えていた。
だって、ニュースで連日流れてくる痛ましい事件なんかは、子どもに衣服や食べ物を与えなかったり、風呂に入らせなかったり、家に放置して何カ月も帰宅しなかったり、その末に餓死したり、そういう“わかりやすい”ものが多かったから。
困窮(こんきゅう)していて、母子家庭で、母親が家に連れ込んだ彼氏が暴力を振るう。そういうステレオタイプなものだけが「虐待」なのだと、勘違いしていた。
たしかに父親は、暴力を振るう人だった。おそらくいちばん最初の記憶は、玄関の冷たい床に横たわった自分の体の上に親父が馬乗りになって、首を絞められているというもの。
鬼のような形相の親父が何事か喚いていて、その隣で母親が「もうやめて」だとかなんとか言って泣いている。いや、もしかしたら本当は、泣いている母がぼくの首を絞めていたのかもしれない。なぜだかそんな気もする。
この記憶は成人したあとに取り戻したものだから、わりと曖昧だ。鮮明に思い出したのは、柔らかな首に食い込む太い指と、背中に当たる硬くひんやりとした大理石の感触だけ。
逃げ場のない「虐待」の日々
たぶん、2歳にも満たないくらいだったと思う。とにかく物心ついたころにはもう、“それ”は始まっていた。父がぼくや双子の弟を罵倒してせっかんするのは日常だったし、だから「親というのはそういうものだ」と思い込んでいた。
でも、衣食住は満ち足りているし、風呂にも入れてもらえている。両親は離婚していないし、なによりうちは “裕福”だった。
父は弁護士で、ぼくの実家は都内でも有数の高級住宅街にある。殴られるし怒鳴られはするけれど、体に傷跡はほとんどない。それこそが周囲に虐待を悟られないための、親父の巧妙な手口だったわけなんだけど。
幼稚園入園前の幼児教室から始まり、公文、そして中学受験専門の塾に通わされた。小学校高学年くらいから、父の暴力はより苛烈になっていった。
毎週末受けさせられる模試の成績表は、返却されるたびくまなくチェックされる。この成績表を見せる瞬間が、いちばん怖かった。
合否判定がB以下だと物か拳が飛んでくるし、Aであってもできていない項目について執拗に詰められる。結果が特に芳しくないときは定規か木刀が持ち出され、容赦なく体を打たれる。
それは父の気が済むまで、あるいは腕が疲れるまで続く。「もうええ、部屋で反省してろ」と解放されるのは、たいてい日付が変わってだいぶ経ったころだった。
疲弊しきった体を引きずり、親父の目を盗んで台所の冷凍庫から保冷剤を持ち出し(ただしこれは運のいいときの話で、見つかればなお酷い目に遭う)、うめきながら打たれた箇所を冷やす。
そうしてじっとベッドの上に横たわって痛みに耐えていると、決まって母親がやってきてこう言うのだ。「一緒にパパに謝りに行こう」、と。
泣いて嫌がるぼくを、母はさながら生贄のように父の眼前にもう一度引きずり出す。そうして、一時休憩を経て体力と気力を取り戻した父により、再びせっかんが始まるのだ。
これが、成績表返却日の夜の我が家のルーティンだった。