表立ってモノをいえない国民性
政治の話題となれば、日本のワイドショーでは「政治家のセクハラ」であったり、「不倫」であったり、スキャンダルばかり。政治家が酒を飲んでいる写真をFacebookに投稿すれば、また一波乱。被災地に芸能人が寄付をすれば、「売名」だと叩かれるし、しなければ、「ケチ」をつけられる。なんとも「ちくちく」した文化が日本の住みにくさを感じさせます。
重箱の隅を箸でつつく文化…そういうイメージが、個人的に強くなっていく今日このごろです。これも、「表立ってモノをいえない国民性」が作り出していると思います。
主張するなら匿名で。匿名ならなんでもいえる。上に意思や意義を主張できず、我慢や辛抱をする。そしてそのはけ口がSNSなどでの、誹謗中傷。やはり、教育を見直すべきなのではないでしょうか。
古い常識は捨てよう
昔、本でも『「NO」と言える日本』(共著:盛田昭夫・石原慎太郎)が話題になりました。これらも「教育」でしょう。でも「見ざる、言わざる、聞かざる」では、あまりに無責任です。大人がダメなんですよね。若い人たちの方が、どんどん利口になっている。きっと、柔軟性があるからでしょう。
伝統を重んじるという考え方を否定するつもりはありません。形あるものは、いずれ壊れる。だから時代に合わせて変化していくことこそ、柔軟性だと思います。
IT・ベンチャー企業にしても、地方の再建や企業の再建にしても、「若い能力」は1番必要とされている。古い常識に固まってしまった頭脳より、いまの若い人たちの力や知恵の方が希望に満ち溢れていて可能性は広いからです。
ゆとり世代をとやかくいう大人は多い。でもそのゆとり世代にこそできるものの考え方は独特で、それを個性としてそちら側に寄せていくという柔軟さも、いまの大人には必要だと思います。