ふたたびの挑戦
文房具メーカーの営業職の求人に応募したことは、実は内緒にしていた。そこは大学生のときにエントリーしたところでも、10年前に応募したところでもない。5年前にできた、新進気鋭のメーカーだ。
契約社員の採用だが、入社3年以内には8割以上が入社正社員登用されていると求人情報には記載されていた。職場までは自宅の最寄り駅から電車で30分以内だし、直行直帰も可能なので、もし採用になったとしても、なんとか子育てとの両立もできそうだ。
このことはまだ、浩太には伝えていない。少し前に「本格的に仕事復帰しようかな」と話したことはあったが、とくに反対はされなかった。なんだかんだ、真依子の意向を基本的に受け入れてくれるのが、浩太の好きなところのひとつだ。
正直なところ、真依子はいまの暮らしにそこそこ満足していたところがあった。夫も子どもたちもいて、まあ普通に暮らせていて、もうそれで十分幸せじゃないかと。あとは子どもたちが成人するまで子育てをしながら、生活に困らない程度に仕事をしていけばいいんじゃないか、と。
結婚していることも子どもがいることも、平凡なことのようでいて当たり前に手に入れられるものではないことを知っているからこそ、そう思う。
でも真依子のなかには、どこかで、もっとチャレンジしたいというふつふつとした気持ちが残っていた。子どもたちが小学校に入学してからは送り迎えもなくなり、時間にも少し余裕ができてきたことも、その理由だ。
もちろん、採用されればいまの仕事よりも責任も大きくなるし、やることも増える。つまずくこともあるだろう。もちろん、就職はお金のためとか安定した仕事を得るためとか、子どもたちのこれからの教育費とかそういう理由はあるとして、でも、やっぱり、それだけではない。
「受かることを祈ってるよ。家族のみんなにもよろしくね」
早希が、缶ビールを画面に掲げながら言う。
「ありがとう、伝えとく」
早希との通話を終えたあと、真依子は酔いがまわったすこし陽気な気分のまま、ベッドにダイブした。ホテルのベッドは柔らかすぎないのに、深く沈んでいく感覚がある。
ぴんと伸びた清潔なシーツのうえに寝そべって天井を見上げていると、自分のいまの立場とか日常のあれこれだとか、一瞬だけすべてを忘れそうになる。
真依子はベッドサイドに備え付けられたつまみをひねり、ラジオをつけた。知らない洋楽が流れている。真依子はラジオが大好きで、布団を被って夜中まで聞いていた学生時代を思い出した。目を閉じていると瞼の暗闇にジャズが流れ込み、それがワインの酔いとちょうど混ざりあって、溶けていく感覚に陥った。