Choice.1 ピーマンと夜とわたし(結婚を選んだ私の10年後)
98円か。駅前のスーパーの入り口に積まれた、ぱりっと、しゃきっとした緑色とその下のプライスカードが目に入り、高杉真依子は思わず立ち止まった。透明な袋のなかには大ぶりのピーマンが6〜7個入っていて、袋の上が赤いビニールテープで留められたものが、段ボールに入って無造作に積まれている。こんなに大きいものがいくつも入って、この値段は安い。
でも、いま買ってもなぁ。このかばんに入るかもわからないし。真依子は、斜め掛けにしたネイビーのボストンバッグをちらっと見た。3カ月前に、フリマアプリで買ったバッグだ。たくさん荷物が入るのにおしゃれなデザインなので、わりと気に入っている。
だけど重いものでもないし、やっぱり、買おうかな。中の荷物を整理すれば、このバッグに入るかもしれないし。一瞬のうちに、そんなことが頭を巡る。
いやいや、気にするな私。どう考えても、いま買わなくていいでしょ。結婚してからというもの「特売」とか「お得」とかそういうものに関するものばかり、目に入る癖がついた気がする。真依子は手に取った袋をそっと戻すと、ふたたび駅へと向かった。
家族から離れて
電車に乗って30分、そのホテルには予定よりも40分ほど早く着いた。直結にはなっていないものの、地下鉄の案内板にホテル名が書かれていたので、方向音痴な真依子でもすぐにわかった。
旅行サイトから、とにかくきれいで落ち着けそうで、交通の便がいいホテルを選んだ。シングルの部屋は1万円以上で、自分のための出費としては、それでもここ最近では一番高い金額だった。
カウンターには、清潔なスーツに身を包んだ男女がふたり立っている。「高杉様ですね、お待ちしておりました」
チェックインの手続きをしているとき、こういった場合、真依子のような客はどんな目的で来ていると思われているのだろうと思う。決して悪いことをしているわけではないが、少し気になった。
都内に住んでいて都内のホテルにひとりで泊まりに来た、35歳の女。領収書をもらうわけでもないから仕事でもないだろうし、観光にしては自宅からの距離が近い。結婚指輪をしているから独身でもない。だが、カウンターのホテルマンはてきぱきと、また上品な微笑みを浮かべながらルームキーを手渡し「ごゆっくりどうぞ」と添えた。
これがもし田舎の旅館だったら、もしかしたら少し怪しまれていたかもしれない。でも、ここは東京だ。下手に詮索されないのが、心地いいことも多い。
ホテルの部屋は12階だった。「ひとりで泊まるのなんて、いつぶりだろう」真依子は部屋に入るとつぶやいた。塵ひとつ落ちていない室内は、白い壁やシーツ、浴槽、鏡もどこもかしこもぴかぴかだ。さっきまで、モノでいっぱいになった自宅にいたとは思えない。
浩太と結婚してから10年、子どもが産まれてからは8年。たった一晩、家族から離れてひとりになるということも、むしろすごく非現実的な体験に思える。