一晩だけの逃避行
真依子は、買ってきたハーフサイズの赤ワインのスクリューキャップを開ける。グラスはフロントで借りた。ホテルに来る途中にあったイタリアンでパスタを食べたとき、そこに売られていたものだ。一緒に買った生ハムとナッツも開けて、ホテルに備え付けられた皿に盛る。真依子は誰に見せるわけでもないけれど、思わず写真を撮った。
喉にワインを流し込むと、ほんの少しだけ、こっくりと酔う感覚に襲われる。部屋のカーテンを開けてみると階下には首都高が臨む。ビルも車のランプも、どれもきらきらと光っている、夜の東京。こんな夜を過ごすのは久しぶりだ。そして、次はいつになるだろう。
「え、ホテル? ひとりで?」
早希はスマートフォンの画面越しに、大きな目を見開いた。ショートカットの黒髪が、同時に揺れる。
「そう、家出してきた。いまは夜景を見てる」
真依子はスマートフォンの画面をずらし、外の景色を見せる。
「わぁ、きれい。家出って、もしかして離婚危機ってやつ?」
「あはは、ごめん。冗談だよ」
でも実際、離婚を考えたことは一度だけある。健と美沙が1歳のとき、浩太と育児やら家事やらのことで(ありがちな)大げんかをしたときに「もし浩太と別れたら、また別の人生がはじまる。それもいいんじゃないか」と思って、本気で物件を検索したことがあった。
結局そのときは「乳幼児をふたり抱えて家を飛び出すのもあまり現実的ではないし」とか「なんか疲れてるだけかも」とかいろいろと考えて、ベビーカーにふたりを乗せて近所をぐるぐる散歩しているうちに、踏みとどまった。
あのときからこれまで、ちょっとした夫婦間でのごたごたやいざこざは、もちろんちょくちょくある。この前、美容室で読んでいた雑誌の夫婦特集で「結婚してから一度も喧嘩をしたことがない」という夫婦のインタビューが載っていたけれど、あんなの、絶対ウソだと思う。喧嘩をしないことと、仲がいいことはイコールではない。真依子はそう思っている。
「びっくりした。ならよかった。でもなんで、ひとりでホテル?」
早希は不思議そうに聞く。
「なんていうか、逃避みたいな感じかな? 日々の暮らしからの」
「まあ、そういう気分になることもあるよね。って私は結婚したことないから、わかんないけど」
早希は真依子の小中学校時代の同級生で、いまでも定期的に連絡を取り、ときどきは会っている。ヨガのインストラクターをしている早希は健康的で若く見えるので、年齢不詳だ。
「早希はどう?例の彼とは」
真依子は、ベッドに腰掛けながら聞いた。真依子の頭には、4カ月前に早希に会ったときに写真を見せてもらった、ほっそりとした短髪の男性が浮かんでいた。皇居ランをしているときに知り合った、3つ年下の会社員なのだと言っていた。
「あ、あいつとはもう終わった」
早希は、間髪入れずきっぱりと答える。
「あいつって」
真依子は思わず笑ってしまう。
「今度はうまくいくと思ったんだけどね」
「それ、毎回言ってない?」
「あたしも35だし、結婚したいわー。で、健くんと美沙ちゃんみたいなかわいい子どもがほしい」
「本当に? 結婚、する気ないでしょ」
「いやいや、大ありだから! 次に付き合った人とは結婚するつもり」
この言葉を、真依子は早希から通算10回以上は聞いている。本人は大真面目なのだが、真依子は早希が結婚するイメージがピンと来ない。なんというか「結婚したい!」という状況そのものを楽しんでいるように見える。そしてそれが、早希らしくておもしろいのだ。
「そういえばさ、どうなった? 面接」
「うん、一次面接は通過したって、おととい連絡があった」
「おー! すごいじゃん」
「まだ、わからないけどね」
「次が二次面接で、それに受かれば決まるってこと?」
「一応、そんな感じ」