クィアマガジン「purple millennium」を運営し、LGBTQ当事者としての経験や考えを発信している、Honoka Yamasakiです。
私は友人や家族に自らのセクシュアリティを伝えるとき、一般的にいわれる「カミングアウト」、いわゆる「私は◯◯です」という伝えかたはしていません。
ですが、母親が私が同性の恋人と付き合っていることを知る機会がありました。「伝える」よりも「伝わる」の表現が合ってるのかもしれません。
私は女性を自認し、いわゆるLGBTQのいずれかに当てはまる人間です。セクシュアリティについては不明なので、ここでは割愛させていただきます(詳しくは、『セクシュアリティは、揺らぐもの。葛藤の末たどり着いた「性」のありかた』にて掲載)。
今回はカミングアウトと、本人の許可なしにその人が秘密にしているセクシュアリティを第三者に漏らす「アウティング」について、私の実体験をもとにお話しします。
生き方の選択である「カミングアウト」
初めて同性である女性に恋心を抱くようになったのは7年前。恋人ができたのは大学2年生のころ、いまから約4年前です。
当時、私の周りで家族にカムアウト済みのクィアな友達は少なく、もちろん受け入れられている子たちもいますが、なかには家を追い出されてしまったりなど、壮絶なストーリーを耳にすることもありました。
カミングアウトをしなければ傷つかなくて済む場合もある。けど、カミングアウトをしないで生活するのも苦。
カミングアウトは、両極端にリスクが伴います。ですが、「彼氏はいないの?」や「結婚はしないの?」の質問に対し、同性を異性とすり替えて返答する自分がいて、「嘘をついているような罪悪感」や「自信を持って恋人を紹介できない申し訳なさ」を抱えていた私は、息のしづらい状況が続くことに耐えられず、カミングアウトを済ませた人たちを羨ましく思っていました。
いわないと「なかったこと」にされる同性愛
私は恋人ができる時期が周りと比べて遅く、異性の恋人を作ってみても1カ月で別れてしまったりしたので、母親からは「男に興味がないの?」「レズビアンなんでしょ〜」と冗談まじりでいわれていたのを覚えています。
同性の恋人ができてからも、母親のこの言葉がなんとなく頭によぎり、「同性愛=架空の存在」として捉えられているなら、カミングアウトは難しいなと思っていました。
社会でも、異性愛以外の恋愛はなかなか認識されにくく、伝えなければ異性愛者となることが多いです。この暗黙の了解がカミングアウトをしづらい雰囲気を作り出しているのだと痛感しました。
伝えなければわからないことは知っているのに、家族には当時の恋人を友達として紹介していたり、彼氏ができないと悩んだフリをしていたり…自ら同性愛をなかったことにしてしまっていることにモヤモヤしていました。