子育ても教育もシェアするべきではないか?
要するに、なるべく子どもを抱え込まずに、みんなで育てる仕組みがあればいい。幼児期からいろんな人が一緒に養育に関わるコミュニティがあればいい。
日本の現行の制度では難しいのかもしれないが、なるべく「我が子」として抱え込まないで済む仕組みだ。
この「我が子」という言葉自体も、所有している意識がないか十分に注意する必要がある。
ある人が「愚息」という言葉が嫌いだと書いていた。まったく同感だ。所有している感が強いだけでなく、それを貶めた表現であり、子どもからすれば、はた迷惑な話である。類似表現に「愚女・愚妻・豚児」がある。いずれも所有意識の強いエゴが感じられる醜悪な表現だ。
親などという立場は、子どもがいるから自動的にそうならせてもらっただけのこと。教師も同じだ。子どもがいなければ教師も何もあったものではない。
だから、我がもの顔という意識を手放して、みんなで教育すればいい。
学級担任制度もやめて、もっとオープンにみんなで見れば、競争意識も学級崩壊もなくなる可能性がある(もっというと、機械的に決められる学年というボーダー自体も本来はいらない)。小学校でも低学年から教科担任制度及び学年担任制度を進めるべきだと考えている。
所有しないこと。オープンにシェアすること。これからの時代の教育はそちらにシフトしていくべきではないかと主張したい。