削られていくメンタル。コロナ禍で不眠症になった
付き合いたての彼氏とのイチャイチャや丁寧な生活は5月のはじめまで続いたが、段々と鬱状態へ入っていった。
理由はひとつ。仕事をしていないことへの罪悪感だった。
本来、私は仕事人間で、疲れるまで働きぐっすり眠るのがこの世でいちばん気持ちのよいことだと思っていたため、人生の夏休みは性に合わなかった。
休業中の仕事は一向に目処立たず、先行き不明。そのうちに眠りが浅くなり、朝まで眠れずお昼過ぎに無理やり起きる、不眠症になっていた。
散歩をしたり筋トレをしてみても、眠れなかった。人間眠れないことは大きなストレスとなるもので、ついにはお酒に頼って眠るようになっていた。
焼酎を水割りで3杯飲んで、頭が痛くなり眠る。そんな生活を過ごすなか、トドメと言わんばかりのダブルローテーション・ムーンサルトプレス並みの大打撃を食らわされた(言ってみたかったプロレス技だ)。
「みはるを幸せにはできないや。ごめんね」
優しい言葉に隠された刃、必殺「幸せにできないという名の別れよう」だ。
仕事への不安や焦りを彼によって解消しようとしたうえ、今回ばかりはうまく行かせるという気合いが重さに変わった私に飽き飽きした彼の答えだったのだと思う。
本当にナイフで刺されたかと思うほど、みぞおちが傷んだ。目に見えない心はきっとそこに潜んでいるのだと確信したほどだった。
暇をしているであろう友人たちに手当たり次第電話した。泣き叫びながら、いつの間にか新しくなっていた彼氏と別れた話を聞いてくれた友人たちは、押し寄せる悲しみの波を電話の先で受け取りなだめてくれた。
私を幸せにできるのは私しかいない
それから1週間も経てば、彼氏に振られた悲しみは癒えていた。その程度の“好き”に助けられる不安などあるわけないのに、よくあそこまで依存したものだ。まるで被害者面をして泣き喚いたものの、自分の愚かさを反省した。
私がやっていたことは、言い換えると自分の幸せを自分以外のなにかに預ける行為だったと実感したのだ。
“丁寧な生活”と張り切ってやっていたことはすべて、SNSにあげたときの誰かの反応を伺っていた。また、休業手当だけでは生活できないはずなのに、無駄な出費が増えていたことも確かだった。
そしてなにより、コロナ禍のゆううつさや仕事の不安・元カレとの別れの寂しさは“丁寧な生活”で癒したのではなく、新しい寿司屋の彼で癒していた。
というよりも、逃げていたのだ。いま起きてる我が身の問題を自分で解決することなく、彼と過ごす時間が忘れさせてくれて、やがてその時間と共に解決する。そう思っていたのだ。
でも、私を幸せにできるのは他人ではなく私だけだった。丁寧な生活はSNSにあげるためではなく自分の心と身体が豊かになるためにしなくてはならないし、仕事におけるストレスや不安定な未来は自分で向き合わなくては解決しない。
先行きが不安ならば、ライフプランの方向性を変える選択肢を考えなければならないし、経済的な状況をみて行動したらいい。そして恋愛における自分の気持ちは、だれが癒してくれるわけでもなく自分が向き合うことでしか整理がつかないのだ。