異性愛恋愛作品とBL、百合
こと現代において、それまで同性愛がおかれていた「同性愛は禁断の愛」=“許されない恋”として描くことが前時代的な考えになりつつあるとこも、今後生じる実情とのギャップのひとつかもしれません。
もちろん、いまだに誰にでも気軽にカムアウトすることを選べる状況でもないので、そういった風潮がないわけではありません。僕が勤め先などの仕事場で公にカムアウトをしていない理由もそこにあるので、よくわかります。
しかし「異性同士でも同性同士でも、恋愛をすることが差別されるべきではない」と考えるいまの世の中の動きを考えると、やはり前時代的な考えになりつつあると感じます。
いまでは禁断の愛として男性同士、女性同士を扱う作品以外にも、さまざまな作品が市場に登場しています。そのなかには同性を好きになることに対してあまり悩まない、葛藤の少ない作品やバイセクシャルであったり、アセクシャルに近いと思われるセクシュアリティの人物など、そもそものセクシュアリティのあり方も現実に近づいています。
同性を好きになることへの葛藤は悪ではありませんし、葛藤を描いた作品と同時に、葛藤がない作品があってももちろんいいと思います。僕自身は自分の心の性には悩んできましたが、身体の性で言えば同性である女性を好きになることは余り悩まず、比較的すぐに自分自身では受け入れられたことからそう思うようにもなりました。
同じように受け入れてきた人はきっと僕だけではないし、強い葛藤や苦悩することは特にこれからはセクシュアルマイノリティの恋愛において必須ではないと思うのです。
たとえば『ロミオとジュリエット』のように、家と家の激しい争いが原因で恋愛ができないことが稀になった現代では、身分違いの恋の多くが「禁断の愛」ではなくなりました。それと同じく、前述のように異性以外を愛することは今後「禁断の愛」ではなくなっていくのではないでしょうか。
いまはまだ周りに言えない恋愛かもしれない。セクシャリティやジェンダーをオープンにして暮らせる人ばかりではないことは事実です。
それが少しずつこれからも変化していってほしいと僕は願っていて、その変化のなかでBLや百合が描くセクシュアルマイノリティの恋愛も時代にあわせて変化し、さらに多様化していくことでしょう。
ディズニー長編作品で描かれてきたヒロイン像が、幸せの象徴たる王子を受け身で待つ女性から自分で未来を切り拓いていく自立した女性像へと時代に合わせて変化していったように、時代に合わせてBLや百合も異性愛者の恋愛と境をなくしいつか「恋愛マンガ」というひとつのジャンルになってほしいのです。